第4章  It is a matter of indifference to me..








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 セフェリスは供を一人従えただけで、フィリッポス2世の自室へと向かっていた。国王と共に謁見の間を退室したのだが、途中で王が宰相に呼び止められたので、先に戻っているようにと言われたからである。

 静かに歩くセフェリスは、先ほどのフィリッポス2世に対する媚を含んだ姿態が嘘の様な無表情である。それは、国王が側にいる時には決して見せない表情であった。

 そんな彼が歩を進めていると、曲がり角で突然人影が飛び出してきた。とっさに従者が彼を背後へと庇う。





 セフェリスの前に現れたのは、アーシアであった。





 別段待ち構えていたわけではない。謁見の間での一件を盗み見ていたアーシアは、クレイトス以上に不安に駆られ飛び出してきたのだ。セフェリスとばったりと出会ってしまったのは本当に偶然であった。

 アーシアは気が気ではなかったのだ。アトレウスにアレクサンドロスを守ると誓ったのに、今自分がいない所で彼は危機に陥っている。

(離れるべきではなかった……何があっても彼についていくべきだった!)

 いまさらながら悔やんでしまう。自由がきかない己の立場に歯噛みしたくなった。
 今からでも遅くはないかもしれない。トラキアへ、アレクサンドロスの元へと行った方がよいかもしれない。

 そんな時、国王の小姓と行き会った。滅多に笑顔を崩さないアーシアではあるが、さすがに動揺している時であるので驚きを隠せなかった。

 セフェリスの方も驚いたようなのだが、彼の方はその無表情は変わらなかった。間近で見たのは初めてであったが、確かにすこぶる美少年である。……しかし、彼の雰囲気は、国王を誑かす色小姓にはとても見えなかった。

 アーシアは、目を眇めて目の前の少年をじっと見つめた。

 全く何の感情も表さない。この虚ろな瞳は一体何なのだろう?もし、今その胸に刃を突きたてられても顔色一つ変えそうになかった。
 虚無を宿す瞳に、アーシアは眉をひそめてしまう。以前、アレクサンドロスの親衛隊の誰かが、彼のことを人形のようだと評していたが、正しく適した表現ではないか。

 少年の内では心が凍り付いて、時を止めてしまっているのだ。

 それは絶望からなのか。どうしてこの光り輝く少年が、何に絶望しなければならないのか。

 人間でありながら、これほどの美貌の持ち主である。全ての者を虜に出来るはずだ。神ですら、その魅惑的な美しさに心奪われるだろう……。

 そう、神ですら……神ですら……!?

「お前は……!」

 記憶の彼方より思い浮かぶ名と姿が、少年と重なった。

(どうして気づかなかったのかしら……!)

 彼の姿や名に覚えがあったはずであった。己の迂闊さに情けなくなる。もっと早くに思い出していれば、アレクサンドロスを危険な目に合わせずにすんだかもしれなかったのに!

 クレイトスはラーイオスの差し金だと疑っていたが、真の黒幕が誰か、彼が気づかないのも当然なのだ。





 セフェリスは、女神から差し向けられた者なのだから……!!





 アーシアの不穏な空気に、セフェリスを背後に庇った従者が咎めたてようとした時、突然彼女の周囲に黒い影がいくつも現れた。

「!?」

 陽炎のように揺らめくそれは、次第に形がはっきりとしてきた。甲冑を身にまとった男達である。
 しかし、彼らが人間ではないことは、出現の仕方から明らかであった。

「な、何だ!?」

 従者がその尋常ならざる存在たちに恐慌状態になった。
 しかし、アーシアは彼に構っている余裕がなかった。男達の敵意が、明らかに自分に注がれているからだ。

 男達の手に、剣や槍が握られる。その切っ先を、アーシアに向けて繰り出してきた。
 一斉に襲い掛かってくる凶器を、アーシアは何とか避けていく。屋外ならともかく屋内の、しかも廊下という狭い空間で同時に襲い掛かられては、いくらアーシアといえど本来の動きを発揮することは難しかった。

 それでも、この程度の相手に危地に陥る彼女ではない。
 まず一人、そして二人と切り伏せていった。

 アーシアの顔に驚愕が浮かんだのは、その切り伏せた男達が何事もなかったように立ち上がり、再び襲撃に加わるのを見たときだった。

(何……!?)

 手加減をしたつもりはなかった。例え人外の者だとしても、確実に死んでいるはずなのに。
 見れば、深々と切られた傷が、跡形もなく塞がっているではないか。

「泥人形……」

 原始、人間は泥から肉体を作られ命の息吹を吹き込まれて作られた、という言い伝えがある。
 それが真実か否かは別として、この場合、人の形をとりながら命を持たない操り人形に対しての比喩であった。

 死なない人形相手では、アーシアがどれほど腕が立とうとも倒すことは出来ない。このまま長引いて彼女の力を消耗させるのが狙いだろうか。アーシアといえど疲労しないわけではないのだから。
 この男達を操っている者がどこかにいるはず。その者を倒せばいいのだが、ずる賢いのか姿はどこにも見えなかった。

 けれど、アーシアは唇を笑みの形に吊り上げた。

 そして、剣を鋭く閃かせる。

「神気は隠せても、殺気までは消せなかったようね、アレス!」





 彼女の剣は目的を過たすに真っ二つに切り裂いた。

 セフェリスの従者を。





 しかし、切られた瞬間彼の体から影が躍り出て、頭上へと飛び上がった。
 軍神アレスだ。雄たけびを上げて、彼は黒光りしている剣をアーシアへと振り下ろした。

 剣と剣がぶつかり合う。

 しっかりと受け止めたアーシアだったが、パワーの差が現れたか、体ごと弾かれてしまった。扉を突き破って倒れこむが、くるりと体勢を整えるのはさすがというべきか。決して隙を見せない。

「あの日の屈辱、決して忘れたことはなかったぞ……!」

 アレスからは憎悪のオーラが立ち上っている。
 あの日とは、アーシアが初めてこの王宮にやってきた日、アレクサンドロスの暗殺を防いだ時のことだろう。
 あの時と同じように人間の姿に身をやつして、けれど己の正体を悟られぬ為に神の気配を完全に絶っていた。見事なもので、目論見どおりアーシアにもほとんどわからなかったのだ。彼から放たれる殺気に気づくまでは……。

 だが、アレスの出現は彼女の憶測を確信へと変えた。

「アフロディーテも姑息な手を使う。まさかお気に入りのアドニス<美少年>を側から離して送り込むとはね」





 アドニス。
 彼は人間の身でありながら、その類まれな美貌の為に愛と美の女神アフロディーテに愛された少年であった。

 アドニスという名は<美少年>を意味しており後に名づけられた呼び名であって、彼が生まれた時につけられた本当の名がセフェリスである。





 セフェリスはアフロディーテの命令でフィリッポス2世に近づき、アレクサンドロスと父王とを仲違いさせて王子を追いつめる為に、王宮へと送り込まれたのだ。

「いまさら気づいても遅いわ!お前が守るとほざいたあの人間、今頃どうなっていると思う?」
「貴様、まさか……?」
「ケールどもの群れが待ち構える戦場で、生きて帰れる者なぞいるものか!残念だったな!」

 勝ち誇るように高笑いをあげるアレスを、アーシアはキッと睨みつけた。

 ケールとは、<ハデスの犬>とも呼ばれる冥界の死の女神達である。戦場の上を飛び交い、狙いを定めた獲物の命をその鋭い爪で絶ち、溢れる血を啜って亡霊の国へと運んでいく、忌まわしき死神どもであった。

 アレスは、アレクサンドロスの命を確実に奪うために、そのケール達を呼び寄せておいたのだ。

「させるものですか……!」

 饒舌なアレスの一瞬の隙を突き、アーシアの剣が青い閃光を描いて襲い掛かった。

 優越感に浸っていたアレスの額の金環が裂けた。
 並みの者なら同時に頭部も断ち割られていたであろうが、さすがは軍神、というべきか。
 だが、全くの無傷ではなかった。右の額から左の頬にかけて、一筋の傷が走っている。深くはないが、鮮やかな血が流れ出た。

 さらに二激目が彼を襲った。

 激しくぶつかり合う金属の音。

「……二度までも俺に傷を負わせたな……」

 地を這うような低い声に、彼の怒りが迸っていた。剣を力で押し合いながら、彼の切れ長の目がアーシアを捉える。

「もはや、許さん……!!」

 カッとアレスの神気が燃え上がった。

 初めて彼と相対峙した時は、アレスが油断していた為か簡単に退けることが出来たが、やはり戦いを司るだけあって本領発揮すると並みの強さではなかった。アーシアとて凄腕の持ち主であるはずだが、純然たる戦いという点ではやはりアレスには劣るのだろう。徐々に押され始めていた。

 だからといってアーシアの方も簡単に退くわけにはいかないのだ。アレクサンドロスを救う為にも、ここを突破してマイドイへと向かわなければならない。

 アーシアの胸内を読んだのか、アレスがニヤリと笑う。

「いまさら手遅れだ。今すぐペラを出発して馬を走らせたって、もう間に合わん。よしんば、空間を跳べば万が一ということもあるが、今の貴様にそれが出来るのか?」
「……!!」
「己の属性を忌み、封じている今の貴様に何が出来る!!」

 アーシアの表情が苦しげに歪んだ。それが肉体の傷によるものではなく、心が受けた痛みだと彼女自身理解できてはいないかもしれないが。
 アレスの言葉は彼女の弱みを確かについたのだ。

(確かに、アレスを倒せたとして陸を移動したとしても、それでは遅すぎる)
(でも、空間を移動してマイドイへ跳ぶことは、今の私には出来ない……)
(今の、私には……)

 いや、一つだけ方法がある。
……だが、それを選択することはアーシアにとってかなりの勇気と覚悟を振り絞らねばならないことであった。

 迷いが剣を鈍らせたのか、ハッとした時にはアレスに間合いを詰められてしまっていた。

「しまっ……!」

 猛剣が強烈な勢いでアーシアの剣を跳ね上げた。そのまま剣は宙を舞って壁に突き刺さった。
 素手になったアーシアには、アレスを前になす術もなくなった。

「死ね!!」

 アレスの剣が、アーシアに死を与えようと振り下ろされた。





 死の切っ先が彼女の届く寸前に。

 閃光と共にアレスは弾き飛ばされ、壁へと激突した。





「な、何が起こった……!?」

 痛みに顔をしかめながらも身を起こすアレスの視界に、アーシアを庇うようにして立つ人影を認めた。

「何者だ!?」
「この場は退いてもらおう、軍神アレス」

 新たに現れた第三者は、長い黒髪をたなびかせた長身の青年であった。この場に介入してきたことから明らかに人間ではないのであろうが、華美な装飾品は身につけず質素な衣服を纏っていることからオリンポスの者とも思えない。

 新たな参入者はアーシアにとっても意外であったようで、彼女の琥珀色の瞳が大きく見開かれた。





「プロメ……テウス……?」

 プロメテウスと呼ばれた男は、金色に輝く瞳をアーシアに向けた。





 プロメテウス。
 彼は神々の賢者とも呼ばれる知恵者で、オリンポスの大神ゼウスの従兄弟である。
 一度は、人間に火を与えた罪で生きながらにして鷲に腸を啄ばまれるという極刑をゼウスから与えられたこともあった。神々の血筋に連なりながら、人間側に立っている異端な存在でもある。





 そんな彼を、敵意に満ちた眼でアレスは睨みつけた。

「何故この女を助ける?ああ、敵の敵は味方、というわけか。オリンポスの敵同士、同盟でも結ぶか?」

 嘲笑がアレスの口元に浮かぶ。
 しかし、彼の心に余裕はなかった。

 相手はゼウスと同じくティターンの血を引き、自分よりも古き存在なのである。アーシア一人だけならばともかく、プロメテウスも相手となると厳しいものがあった。

 対するプロメテウスの方は泰然としていた。

「私はともかく、彼女はオリンポスの敵、ではなくてアフロディーテの敵、であろう?」

 どうやら彼の方は事情を十分に承知し、正確に把握しているようである。
 だからといって、情で動くような男ではないのはアーシアも知っていた。では、一体何の為に彼女を助けようとするのだろうか?

 プロメテウスは、アーシアを見下ろしながら厳かに告げた。





「彼女に今死んでもらっては困る。彼女は世界の命運を握る鍵なのだから」















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It is a matter of indifference to me. =「それは私にとってどうでもいいことである」




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