第4章  It is a matter of indifference to me..








V









「彼女に今死んでもらっては困る。彼女は世界の命運を握る鍵なのだから」







 一瞬言葉を失ったアレスが、激昂して叫ぶ。

「……戯言をほざくな!世界の命運だと!?この忌まわしい女が……!?」
「そなたには分からぬか。今、世界は均衡が崩れ歪みが生じている」

 叩きつけられるような言葉を浴びせられても、プロメテウスの口調は全く変わらなかった。
 静かな、抑揚のない声音だ。

「その歪みとはオリンポスのことだ」
「何だと……!」
「今、神々の世は終わり世界の中心は人界へと移ろうとしている。しかし、オリンポスではそれを拒み、世界の主たらんとして覇権にしがみつき理を歪めてしまっているのだ。このままでは世界は滅んでしまう」

 怒りのあまりアレスは震えだした。剣の柄を関節が白くなるほど握り締める。

「言うに事欠いて、オリンポスを罵るか……!許せん!世界を歪めているのは貴様の考えの方だ!!」

 もはやアレスの目にはプロメテウスしか見えていなかった。彼の存在そのものが許せず、その命を奪おうと剣を振り上げた。
 しかし、プロメテウスの瞳がきらりと光ると、そのままの姿勢でアレスは硬直してしまった。指先さえ、動かせない。

「く、くそ……っ」
「そう、私はオリンポスを認めることが出来ない。人界を守る為なら私は何だと手するだろう。オリンポスの滅びさえ厭わない」

 プロメテウスは指を鳴らした。

「去ね」

 指の音とともにアレスの姿がスッと消えた。強制的に移動させられたのだろう、消える間際の顔は屈辱に歪んでいた。

 再びプロメテウスはアーシアの方を向いた。

 彼女は、彼が現れたままずっと黙したままだった。何と口を挟んでよいのか分からなかったのかもしれない。

「聞いての通りだ。そなたが世界の命運を担う鍵。世界を滅びから救えるのはそなただけなのだ」
「世界の命運を担う……鍵……」

 彼女自身も初耳だったのか、呆然として聞いていた。

 しかし。
 やがて皮肉げにくくっと笑い出す。

「滅びから救う?私が?よりによってこの私が?」

 それはプロメテウスを、というより自分自身を嘲っているような笑いだった。

「読み違えもいいところだわ。世界を救いたいと願うならあなたが救えば言い。私に頼むのは筋違いよ」
「世界が滅んでもよいと?」
「世界の命運?そんなこと、興味ないわ」

 立ち上がりながら吐き捨てるように言う。
 そして、真正面からプロメテウスの目を見つめた。決して逸らされることなく。

「私は私が信じることを為すだけよ」

 そう、自分はアレクサンドロスを救わねばならないのだ。むざむざとケールどもの餌食にさせるわけにはいかない。
 もう迷いはなかった。アーシアは左耳にはめられた細長いピアスを握ると、思い切り引き千切った。
 ――――――その途端。
 全身から立ち上る、凄まじいほどのオーラ。先のアレスやアフロディーテを凌ぐほど激しく揺らめいている。

 そして、アーシアの姿が一瞬の内に消えた。





 アーシアの脳裏からはすでに忘れ去られていたのだが、実はこの場には彼ら二人以外の人物がいた。

 セフェリスだ。

 アレスからもその存在を無視された形になった彼だったが、この一連の騒ぎの渦中にずっと存在していた。けれど、その無表情・無感情から存在感を全く感じさせなかったのだ。
 目の前で激しい争いが繰り広げられようとも、プロメテウスが現れ重大な事実を告げようとも、彼の希薄な気配は全く変わることがなかった。

 ところが。

 アーシアが消える間際の――――――彼女が最後に言い放った言葉を耳にした時、初めてそれが崩れた。愕然としたように朱色の大きな瞳をさらに見開いたのだ。
 アーシアの存在はあらかじめアフロディーテから聞かされていた。けれど、今始めて彼は彼女のことを認識できたのかもしれない。

『世界の命運?興味ないわ』
『私は私が信じることを為すだけよ』

(あの女性は……なんて強い……)

 世界の存在よりも己の新年を彼女は選んだのだ。少しの迷いもなく。
 その強さはどこから現れるのだろう。高位の神々という強大な力を前にしても決して臆することもなく、何者にでも立ち向かい自らの手で道を選び抜く。決して敵わないと分かっていても、己の心に背くことが出来ないのだろう。何という強い心の持ち主だろうか……!

 そんなセフェリスの心を読んだのか、プロメテウスが彼に視線を向けた。

「……彼女とて最初から強かったわけではない。例えその選択が最良でも最善でもなかったとしても、彼女は乗り越えてきたのだ。……そなたは、どうなのだ?」

 プロメテウスの口調は変わらず静かであった。
 けれど、アレスの怒声よりも鋭くセフェリスの胸に突き刺さった。

「僕は……」

 答えられなかった。
 自分はどうなのか?乗り越えようとしたのか?全てを運命だからと抗うことさえ思いつかぬまま、諦めと共に受け入れてしまったのではないのか?

「……僕、は……」

 胸の内の感情が言葉に出来ない。溢れるほどの想いは次から次へと込み上げてくるのに、何も言うことが出来なかった。








 トラキアのマイドイ地方。

 戦場から離れたやや小高い丘に、アーシアは姿を現した。
 空間を跳んだのだ。

 だが、彼女の様子が何やらおかしい。蹲ったまま立ち上がろうとはしないのだ。
 両膝を地につき、身体を丸めて何かの苦痛に耐えるかのように表情を歪ませている。冷汗を流す青白いその顔は、震えながら歯を食いしばっていた。
 彼女の手には、引き千切られたピアスが握り締められている。

「大丈夫……私は、大丈夫……よ……」

 自分に言い聞かせるように、細い声が漏れた。

「暴走なんてしない……絶対に!」

 アーシアは、自分の意思を無視して迸ろうとする力を押さえ込んでいた。必死の思いで力をコントロールする。
 そして、ピアスによって己に課していた封印の枷を再び施した――――――強制的に。
 がくりと、体から力が抜ける。
 荒い息を吐きながら、呼吸を整えていった。安堵の吐息をつく。

 決して解くつもりはなかった封印。
 非常事態だったとはいえ、彼女自身の身も危うくする諸刃の剣なのだ。

 だが、休んでいる暇はなかった。見れば戦場の上空は不穏な空気が渦巻いている。人間の目には見えない暗雲が重くたちこめ、赤いローブを纏ったケールどもの哄笑が耳障りなほど響いていた。

 目を血走らせて舌なめずりをしている死神達。
 今まさに眼下に群がる獲物に襲い掛かろうとした時、そうはさせじとアーシアが力を放った。

 見えない壁に阻まれるかのように弾かれるケール達。

何者じゃ!?

 彼女達は一斉にアーシアへと向き直った。青白い肌に乱れた鉛色の髪がまとわりついている。裂けた唇から除く歯は鋭く尖っており、血に飢えて餓えているかのように瞳は赤く光っていた。

汝は……!

「下がれ!ハデスの犬どもよ!!」

 アーシアは毅然と言い放った。
 ケール達は、ゆっくりとアーシアの頭上を旋回するように取り囲んでいく。

我らの邪魔をいたすと?
何故汝が?

 ケール達が口々に言葉を発した。

「理由なぞ話したところでお前達には理解出来まい。だが、今ここでお前達に暴れられるわけにはいかないのだ」

 不気味さを感じさせる陰鬱な死神達を相手に、アーシアは全く臆する気配を見せなかった。彼女達を睨みつける瞳は力強く輝いている。

戦場で獲物を屠るが我らが性、同じ夜の系譜の汝が知らぬわけはなかろうに、そのような理不尽を申すか……!
「理不尽は百も承知よ」
笑止!
汝、昔日の燃ゆる様な力を感じぬぞ!
その様で我ら相手に如何ほどのことが出来ようか!

 嘲笑が浴びせられる。
 しかし、アーシアはにやりと笑った。

「今の私でも、お前達を止めることなど造作もないわ」
よう言った!
ならば、手始めに汝の生命から啜らせてもらおうぞ!

 ギラリと目を光らせて、ケール達が襲い掛かってきた。

 節くれだった指の先には獣のような鈎爪がある。鋭く尖ったのその爪がアーシアの肩を切り裂いた。
 鮮血が散ったが深い傷ではなかった。嬲るつもりなのだろう。彼女を裂いたケールは、ニタニタと笑うと指先に滴る血をぺろりと舐めた。芳醇な血の味に歓喜の表情が浮かぶ。

 アーシアは握り締めていたピアスを取り出した。
 淡く発光すると、ピアスが形を変えていった。手の平に収まるほどの大きさだったのが、次第に細長い杖のようなものに変形していく。先端に幾つもの輪を連ねた飾りのある、背丈ほどの長さの杖だ。
 その杖を、アーシアは頭上に掲げた。

 杖から、光が生じた。
 網膜を焼き尽くすほどの凄まじく膨大な輝きの光が。

ぎゃあああぁぁぁぁ!!!!

 夜の一族、特に暗い冥府の闇に生きるケール達にとって、純粋な光は毒でしかない。全細胞が引き攣れるような苦痛が彼女達の全身を苛んでいく。

馬鹿な!
汝も焼き尽くされるつもりか……!
「あいにくとお前達より耐性はあるのでね。我が名の呪いをその身に受けたいか!?」
くっ……!
お、覚えておれ……!!

 あまりの苦しさに、ケール達は一斉に逃げ出した。アーシアの視界から姿を消す。

 彼女達を完全に退けてから、アーシアはがくりと膝をついた。ケールの言葉どおり、あの光は彼女に身にも苦痛を与えていたのだ。

 杖が再びピアスの形に戻った。これが枷でもあるのだが、あのくらいの力の解放ならば、ほんの少し封印を解くだけで済む。空間を跳ぶことに比べたら僅かなものだった。

 しかし、ケールは退けたが、戦はまだ続いている。剣戟と馬のいななき、そして兵士達の咆哮が聞こえてきた。
 アレクサンドロスの身を案じたアーシアは、助けなければ、と戦場に飛び出そうとした。

 しかし――――――彼女は目を瞠ったまま、動けなくなった。

 数の上では不利であったはずの戦は、しかしマケドニア軍に有利に展開していた。
 そして、大将であるアレクサンドロスが、馬を駆って自ら戦陣を突き進んでいた。何という危険を冒すのかと、普通ならば考えるのだが。

 そんな思考が、アーシアには一切思い浮かばなかった。
 ただ、目を奪われた。彼の雄姿に。その魂の輝きに。

(ああ……私は思い違いをしていた。アトレウスの言葉通り、ただ彼を何者からも守ればいいのだと思っていた。でも、彼は違う。守られるだけの人間ではないのだわ)

 彼は自分自身の手で、力で、道を開いていく。
 それが例え困難な道でも、己の力を信じて進んでいける人間なのだ。そして、人々を導く光となるのだろう。大きな、底知れぬ力と魅力を持っている……。

(彼は大丈夫だ。決して負けることはない。世界を動かす力の持ち主なのだから。私は、彼の進む道の手助けとなれるように守っていけばいいのだ)

 今までアレクサンドロスという人間の力を根本では理解できていなかった。アーシアには、ただアトレウスの願いを叶えることしか頭になかったのだ。けれど。

 彼女は、今初めて、アレクサンドロスという人間を知った気がした。

 アーシアの気持ちが変化していく。自覚してのことではなく、無意識の内にではあるが。
 この感情の変化が、アーシアの未来を大きく変えることになる。
 ここが、彼女の人生の分岐点となった。







 紀元前339年夏――――――アレクサンドロスはトラキアのマイドイ人を破り、マケドニアに勝利をもたらした。












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It is a matter of indifference to me. =「それは私にとってどうでもいいことである」




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