第4章  It is a matter of indifference to me..








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  歴史上、アレクサンドロス大王は生涯の大半を戦争に費やしている。二十度以上の戦争を行なったとされている彼の、記録として最初に記された戦争はトラキアのマイドイ人への遠征であった。



「で、クレイトスは何故残ったの?」

 不思議そうにアーシアはクレイトスを覗き込んだ。
 ここはペラの王宮である。その宮殿の一角に二人はいるのであった。
 実はすでにアレクサンドロスは軍勢を引き連れて出陣した後である。アーシアはトラキアへの遠征には連れて行かれなかったのだ。
 それにはもちろん理由がある。
 今回の遠征に、パルメニオン将軍という人物も一緒に赴くことになった。その人物が少々厄介であったのだ。
 古くからフィリッポス二世に使える将軍は、仕来りや慣習に拘るいかにもと言う感じの軍人であった。頑固な将軍に女性を戦場へ連れて行くことを了解させるのは至難の業だったのだ。時間をかけて説得すれば必ずしも不可能であるとはいえないだろうが、実は出発前に軍の編成のことで散々揉めたばかりなのである。これ以上の時間は費やせなかった。
 というわけで、アーシアはペラへと残された。
 それは分かるのだが、分からないのがクレイトスの場合である。それが、冒頭のアーシアの台詞へと繋がるのだ。
 アレクサンドロスの側近の一人であり、彼の乳兄弟でもあるクレイトスが、一人ペラへと残ったというのが不思議であった。てっきり親衛隊は全員アレクサンドロスに付き従って戦場へ行くとばかり思っていたのだ。

「僕はアレクとの連絡役ですよ。ペラでの動向をアレクに報告する役目です。もちろん、アレクの留守にペラで何事か起こったときには僕の手勢だけで対処しなければならなくなるのですが」
「何いもなければいいわね」
「そう願いたいものです」

 その時、回廊の奥から人の話し声や足音が響いてきた。ゆっくりとこちらに向かってくる。
 それが国王やその取り巻きらの一団だと気づき、クレイトスとアーシアは脇へと身をよけ、低頭して彼らが通り過ぎるのを待った。
 しかし、クレイトスの目は鋭い光を帯びて、国王に肩を抱かれながらしなだれかかっている少年をねめつけていた。
 その姿が消えるまで視線を外さない。そんなクレイトスに、アーシアは小声で呟いた。

「……随分と警戒しているみたいね」
「当然です。彼は何らかの企みを持って、アレクを陛下から遠ざけようとしているに違いないのですから」

 この手の情報を探るのに長けているアステリオンでさえ、セフェリスという少年の裏にいる人物が誰かを探り当てることは出来なかった。何の手を打つことも出来ず、アレクサンドロスの側近は皆悔しい思いをしているのだ。
 アレクサンドロスはマケドニアの摂政であり、国王の後継者として認められている人物である。国外はもとより、国内にも敵は多い。疑わしい人物はごまんといる。

「僕は、ラーイオス様が怪しいと思っているのですが……」
「俺が何だって?」

 建物の陰から不意に男が現れた。年齢は二十代の前半だろうか、長身の青年であった。やや癖の入った黒髪を無造作に書き上げ、彼はクレイトスを見やった。そのアイスブルーの切れ長の瞳は冷たく光り、皮肉げな笑みを唇に浮かべている。
 その後ろにもう一人、若い男性が控えていた。こちらは対称的に優しげな顔立ちで、気が弱いのかおどおどとした態度を隠しきれないようだ。その様子からは前に立つ男の従者の様でもある。
 しかし、そうではないことはアーシアも知っていた。

「ラーイオス様……それにフィリッポス・アッリダイオス様まで……」

 彼らは、アレクサンドロスの異母兄であった。
 マケドニア王フィリッポス二世には六人の妃がいることは以前にも述べた。ラーイオス、フィリッポス・アッリダイオス、アレクサンドロスは三人ともが母親が異なるのである。
 アーシアも直接会話したことは一度もない。けれど、王宮を案内された時に彼らについては説明されていた。
 ラーイオスが、ニヤニヤと笑いながらクレイトスに近寄っていく。

「言っておくが、あの小姓を差し向けたのは誓って俺じゃないぜ。まあ、誰が送ったかは知らないが、俺にしてみれば感謝したい気分だ。いい気味だぜ、アレクサンドロスの奴」
「兄上!何を言うのですか!」

 慌てたようにフィリッポス・アッリダイオスが声を上げた。

「気取るなよ、アッリダイオス。お前だってそう思ってるんだろう?母が正妃というだけで、アイツは兄である俺たちを差し置いて摂政になりやがったんだぜ。面白くないのが当然だろうが」
「私はそうは思いません。アレクサンドロスは血筋とは関係なく、私達兄弟の中で最も父の後を継ぐに相応しい器量の持ち主です。父上が彼を後継者に指名したのは当然のことなのです」
「ふん、それだってどうなるか。今の父上とアレクサンドロスは上手くいっていない。下手すれば廃嫡ってことだってあり得るだろうさ」

 礼儀を重んじて彼らの会話に口を挟むことをしなかったクレイトスだが、さすがの彼でも聞き咎めたのか、眉を吊り上げて言葉を発した。

「いくらラーイオス様といえど、それ以上のアレクサンドロス王子への愚弄を聞き捨てにするわけには参りません!口を慎んで下さい……!」

 身分の下の者に意見されたというのにラーイオスは至って平然としていた。最初からクレイトスが激昂するのが分かっていたのだろう、彼の無礼を咎め立てする様子は見られなかった。もしかしたら、クレイトスを怒らせる為にわざと煽ったのかもしれない。くくっと嫌な笑いを浮かべるだけだた。

「おー怖い怖い。本当のことなのにな」

 楽しげに笑いながらラーイオスは去っていった。
 残されたもう一人の王子は済まなそうに頭を下げる。

「……申し訳ない。兄上に代わり、私から謝罪します」
「アッリダイオス様、頭を上げてください。貴方がそのようなことをする必要はありません」

 アレクサンドロスを侮辱したのはラーイオスの方で、アッリダイオスはといえば逆に擁護してくれたのだ。それに、王族はむやみに臣下に謝るものではない。謝罪してもらいたかったわけではないクレイトスの方が困惑してしまう。

「いや……己の不甲斐なさに情けなくなる。兄を諫めることも出来ないなんて……。私はアレクサンドロスのように人の上に立つ器量もないし、兄上のように覇気があるわけでもない、弱虫だから……」
「アッリダイオス様はお優しいのです。それは人間として優れた美徳だと思います」



「随分と対照的なご兄弟ね」

 自己嫌悪に陥るフィリッポス・アッリダイオスを宥め彼と別れたクレイトスに、ずっと沈黙を守ってきたアーシアが話しかける。
 先ほどの会話で、彼らの性格がおおよそではあるが理解できた。
 ラーイオスは自己顕示欲が強く、なおかつ権勢欲もあるようだ。長兄であるのに後継者の座を弟に奪われたことを苦々しく感じているのだろう。アレクサンドロスを疎ましく思っているのを隠しもしない。
 対するフィリッポス・アッリダイオスの方は、本当に王族なのだろうかと疑うほど腰の低い態度を取っている。自分の力量の無さを自覚し、アレクサンドロスの立場を認めていた。誠実さがうかがわれるが、王子という地位にあるにしては軟弱であるとしか言いようが無いだろう。クレイトスは彼の優しさを人間として優れた美徳だといったが、人の上に立つ者としては欠点以外の何物でもないのだ。
 ラーイオスもフィリッポス・アッリダイオスも、アレクサンドロスとはまた違ったタイプの人間であった。それを一言でまとめると『対照的』というわけだ。

「三人とも母君が違うのです。育った環境も大きな原因でしょうね。アレクは、生まれた時から後継者たらんと育てられましたし、アッリダイオス様は母君の身分から、初めから王位とは縁遠かったので宮廷の争いごととも無縁でした。しかし、ラーイオス様の母君は正妃ではありませんが、決して身分は低くありませんので……」
「次期王位を狙ってらっしゃる、と」

 フィリッポス・アッリダイオスの母親はラリッサという国から来た遊女であった。王子を生んだ為愛妾として迎えられはしたものの、王宮の片隅でひっそりと暮らしているだけであった。その母親の気質を受け継いだのか、フィリッポス・アッリダイオスは争いごとを嫌う穏やかな性格の青年として育ったのである。
 けれど、ラーイオスの母親はマケドニア国の王族の血が流れる貴族の娘であった。血筋だけで言うならば、アレクサンドロスの母・オリュンピアスと比べても何の遜色も無いだろう。外交上の問題からオリュンピアスが正妃に選ばれたに過ぎないのだ。
 それが十分分かっているからこそ、ラーイオスの母親は息子に期待を寄せた。正妃にはなれなくても、次期国王の母にならんとして。
 そして、ラーイオス自身も己に流れる血に誇りを持ち、後継者の座を欲しているのであった。

「アレクにとっては兄も敵の内の一人なのね」
「正妃オリュンピアス様はご実家が強力な後ろ盾となっていますので、宮廷ではかなり強い力を持っています。オリュンピアス様がご健在な限り、アレクの立場は揺るがないですよ」

 その時、慌ただしい靴音共に、声が響いた。

「クレイトス様!」

 クレイトスの副官であるレオナントスが駆け寄ってきた。

「マイドイからパルメニオン将軍の伝令が来ました!陛下に謁見を申し出ているようです!」
「マイドイから!?」

 戦局に何事かの変事があったのかもしれない。クレイトスは謁見の様子を見る為に駆け出した。
 残れともついて来いとも言われず、アーシアはどうしようかと一瞬迷った。きっとクレイトスの脳裏からはすでにアーシアのことは消え去っていたに違いない。
 アレクサンドロスのことはやはり気になる。かといってクレイトスのように正面から入れる身分ではない。となればこっそりと忍び込むしかないのだろう。



 謁見の間にはフィリッポス二世の他に、主だった重臣達もすでに集まっていた。クレイトスもアレクサンドロスの側近としてそこに並ぶ権利を持っている。遅れてではあるが、末席へとやって来た。
 フィリッポス二世は玉座に腰掛け、使者を見下ろした。傍らには、やはりセフェリスが寄り添っている。重臣達の中にはそれをよく思わない者もいるが、表立って国王に進言するものはいなかった。

「申し上げます!我が軍はマイドイ軍と遭遇、一触即発の状態となっています。マイドイ軍の数およそ二千人の大群!パルメニオン将軍は援軍を要請されております!!」

 アレクサンドロスの軍は約五百人しかいない。数の上では圧倒敵に不利であった。
 フィリッポス二世はすぐには答えず、伝令役を鋭い目で睨んだ。

「国王に対する援軍の要請を、何故大将の王子ではなく副将のパルメニオン将軍が寄越すのか?王子は何をしておる?」

 これは当然の疑問である。国王はアレクサンドロスにマイドイ人の討伐を命じたのである。援軍が必要であると判断し要請するのならば、王子の名でするべきであるのだ。

「援軍の要請はパルメニオン将軍ご自身の考えであられまして、王子は……その……」
「はっきり申せ」
「はっ、アレクサンドロス王子に置かれましては、援軍は不要、と仰せになられました!」

 一同がざわめいた。五百対二千では敗北は決まったも同然であるのだ。勝つ為には援軍が不可欠ではないか。
 いくら王子が不要と言おうとも、ここで援軍を派遣しないということは彼らを見殺しにすることにもなる。パルメニオン将軍の要請通り、援軍の編成をするべきだ、と言う意見が飛び交った。
 しかし。

「陛下、王子が不要と仰られるのならば、援軍は送らぬ方がよろしいのではないでしょうか?」

 セフェリスが、少女のような白く細いてをフィリッポス二世の肩に置きながら、その耳元に睦言を紡ぐかのように囁いた。クレイトスが険しい視線を投げつけるのにも構わずに続けて言う。

「アレクサンドロス王子は誇り高いお方、むやみに陛下が介入されれば、誇りを傷つけられたと思うやもしれません故」
「うむ、それもそうだな」

 少年の美声に聞き惚れているかのように、うっとりとしながらフィリッポス二世は頷いた。

「お待ちください、陛下!!」

 慌てたのはクレイトスだ。不敬と詰られようが、ここで退くわけにはいかなかった。
 けれども、国王は彼の言上など言わなくても分かるとばかりに、クレイトスにそれ以上の言葉を続けさせなかった。

「クレイトスよ、乳兄弟のお前はあれの誇り高さを十分に承知しているだろう」
「そ、それはもちろんですが、しかし……」
「そのお前が王子を信じなくてどうする」

 フィリッポス二世の言葉は、息子に対する絶大の信頼があるのだと捉えることも出来るだろう。しかし、それが口先だけのものだということが、冷たい目で見下ろされているクレイトスには嫌でも分かってしまった。
 援軍を、送るつもりなど無いのだ。

(ご自分の息子を見殺しにされるつもりか!?それほどまでにアレクを疎んじておられるのか……!!)

 そう叫びたくなるのを、唇を噛み締めてクレイトスは堪えた。
 アレクサンドロスが援軍を不要といったからには、何か考えがあるのだろう。勝負を諦めているわけではないはずだ。彼に対する信頼は揺らぐことはないが、それでもクレイトスは不安が生じるのを止められなかった。
 謁見の間から立ち去るフィリッポス二世にはもはや見向きもせず、クレイトスも部屋から飛び出した。国王が当てに出来ない以上、自分が動くしかない。本来ならば立場上勝手に自軍を援軍として送ることは出来ないが、いざとなれば国王に背いてでも彼はトラキアへ行く覚悟があった。もちろんそれは最終手段であるが、それを判断する為にもトラキアの情勢を確実に入手しなければならない。

「レオナントス!」

 控えていた副官に、

「トラキアへ探りを入れる。マイドイの動きを逐一報告させるんだ。それから……いざという時にはすぐに出軍できるように、軍勢を整えておけ」




















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It is a matter of indifference to me. =「それは私にとってどうでもいいことである」




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