第三章 Truth is no absolute thing , but always relative .
V アレクサンドロスとクレオパトラは、二人きりになってもしばらく無言のままだった。 (ヘファイスティオンの手引きか……) アレクサンドロスの想いを知っているのはヘファイスティオンだけだ。他の親衛隊の連中にも、話してはいない。本当はヘファイスティオンに話すのも迷ったのだが、どんな秘密をも打ち明けようと誓った親友である。黙ったままでいることに耐えられなかったのだ。 ヘファイスティオンは、非難も罵声も浴びせなかった。許されない恋だとアレクサンドロスが自覚していることを分かっていたからだ。 そう、許されるはずがない……幾らクレオパトラも自分のことを想ってくれていても。 彼女は父の妻となる女性だ。叶うはずのない恋なのだ。 「……お話とは何でしょうか、クレオパトラ殿」 距離をおいた冷静な声に、クレオパトラの身体がびくっと震える。 優しい言葉や熱い抱擁を期待しなかったと言えば嘘になる。けれど、あえて突き放そうとするアレクサンドロスの態度に、彼女は心が軋むような思いを感じた。 先ほどの光景もクレオパトラを苦しめた。アレクサンドロスの側にいた美しい女性。彼ほどの男ならどんな女でも心を奪われるだろうし、彼の隣にいても彼女は何ら非難されることもない。羨望と嫉妬が心の内で荒れ狂う。 自分がどれほど望もうと決して得られない場所に彼女はいることが出来るのだ。 アレクサンドロスの胸にしがみつきたい衝動を抑えながら、クレオパトラは震える声を絞り出した。 「……フィリッポス陛下と、上手くいかれていないとお聞きしました……」 昼間の一件を指しているのだろう。 だが、それはクレオパトラが口を出していいことではない。彼女は国王の婚約者ではあるが、政治に参与する資格を持っているわけではないのだ。 クレオパトラもそれは十分に承知していた。彼女の口出しをアレクサンドロスが快く思わないことも分かっている。けれど、これだけは伝えねばならない。 意を決して、彼女は口を開いた。 「……最近、陛下のお側に召された少年のことをご存じでしょうか……?」 「……?」 自分と父の不仲についての話題に、突然少年のことを持ち出されてアレクサンドロスは困惑した。 「セフェリスという名の少年ですが、随分と陛下のお気に召されたようで、彼の進言はすべて陛下に容れられているようなのです」 「セフェリス……?」 「どうやら……そのセフェリスという者、フィリッポス陛下の心にアレクサンドロス様に対する不信を植えつけているようなのです」 初耳だった。 信じられない、という気持ちもある。あの偉大なる父が、気に入ったとはいえほんの短い間のつき合いの少年の言葉をそう簡単に受け入れるものだろうか?自分には十七年という血の繋がりによる年月があるのに。たかが数日、数ヶ月の者の言うことを簡単に聞き入れるとは思えなかった。 それに、セフェリスという少年にも心当たりはなかった。何故、その少年がフィリッポス二世とアレクサンドロスの間に溝を作ろうとするのだろうか。敵国の間者だろうか?だとしても、簡単に騙されるような父ではないと思うのだが。 「お気をつけあそばせ。セフェリスという少年が何を目的としているかは分かりませぬが、アレクサンドロス様に良い感情をお持ちではないようですので」 「……お心づかい、かたじけない」 アレクサンドロスの声には感謝の念が込められていた。二人きりでいるところを見咎められればクレオパトラだとて無事ではいられないだろうに、そんな危険も顧みず彼女はアレクサンドロスに伝えに来てくれたのだ。 それなのに、自分は冷たい態度しかとれない。 軽く会釈をすると、振り切るようにアレクサンドロスは踵を返した。そして、振り返ることなく彼は姿を消した。 その背を、クレオパトラはじっと見つめることしか出来なかった。アレクサンドロスの姿が視界から完全に消えても、いつまでも彼の背を見つめ続けた。 自室の入り口で、ヘファイスティオンが扉にもたれて待っていた。 その姿を認めて、アレクサンドロスは泣き笑いのような表情を浮かべた。例え自分が戻ってこなくても、彼は朝までずっと――――――いや、アレクサンドロスが戻ってくるまで待ち続けただろうと分かるからだ。 「……お節介な奴め」 「済まないがこういう性分なんだ」 アレクサンドロスの苦悩は分かっているのだろうが、あえてヘファイスティオンはそれには触れようとはしなかった。それが彼の優しさなのだ。 「……アーシアというのは不思議な娘だな」 部屋に入るアレクサンドロスの後に続きながら、あたかも今思いついたと言った様子でヘファイスティオンが切り出してきた。 アーシアとのことも気にしているようで、さり気無い風を装った話題転換に、アレクサンドロスは気づかない振りをして話に乗った。こういう時、彼がどれだけ自分を支えていてくれているのかと痛感する。 「アーシアがどうしたって?」 「偶然二人で話す機会があったんだが……掴み所がないと言うか何と言うか……。彼女は自分の事を『人の心が理解できない』と言っていた。確かに独特の雰囲気を持ってはいるが……」 この世界は正しいことばかりで出来ているわけではない。そう呟いたアーシアの横顔は、触れてはならぬ聖域に入り込んだかのような錯覚を感じさせた。 二人の気まずさを心配していたのは本当だが、彼女の謎めいた空気に不思議と心が騒ぐものがあったことも事実だった。 だが、アレクサンドロスはヘファイスティオンの心の揺らめきを切り捨てるように言った。 「だが、彼女の言葉に偽りはない」 驚きを込めてヘファイスティオンはアレクサンドロスを見つめた。彼にはアーシアの不可思議な魔法に惑わされている様子は一切なかった。 「アーシアは真っ直ぐなんだ。正しい事を正しいと言える強さを持っている。裏表のない分信頼できると思っている」 「……おや、この間はむくれていたと思ったが……随分と彼女の事を買っているんだな」 ここ一週間の態度を見ているだけに、彼の言動が一致していないような気がしてからかってしまう。 そしてアレクサンドロスの方も、自分の態度を反省している為、きまり悪げにそっぽを向いた。 「彼女の言うことは間違っていないんだ。ただ、俺が素直に受け入れがたいだけで……」 「分かっているよ。お前の人を見る目は確かだ。俺も彼女は信頼できると思っている」 二人は、お互いの顔を見あって笑い合った。 ひとしきり笑いが落ち着いた頃、アレクサンドロスの表情に固いものが浮かぶ。 「丁度良かった。お前に相談したい事があったんだ……」 「セフェリスと言う少年を知っているか?」 いつも通りに剣の鍛練に集まる親衛隊達に、ヘファイスティオンが訊ねた。 こんな時にあっさりと答えられるのはアステリオンだった。 「陛下に見初められて側に召された小姓だろう。色仕掛けで陛下を誑かしていると言う噂もあるな」 情報通とも言えるアステリオンである。何を今更、と当然のように言った。 余談ではあるが、当時のギリシアでは同性愛はほとんどの都市国家に見られた特徴であった。もちろん、国ごとに慣習などは異なっていて、プラトニックな関係が理想とされているところもあるが、肉体関係が公然ともてはやされていた国もあるのだ。テバイでは特にその傾向が強く、テバイの『神聖隊』は有名であった。戦いで恋人同士を隣に並ばせて、軍事的な効果をあげたのである。 マケドニアではそこまでの風潮はないが、美しい少年を愛でることは日常にありふれていることであったので、国王が美少年に執心していても何らおかしいことではなかった。だから、フィリッポス二世が新しい小姓を侍らしても誰も気にする者などいなかった。 「アステリオン、その少年の身元は分かるか?」 問われて、彼はマケドニアの有名貴族の名をあげた。その者からの献上品らしいと。 「そうか……」 親フィリッポス派で有名な貴族だった。何か裏がある、とは考えにくい。 では、何故そのセフェリスと言う少年がアレクサンドロスを不利な立場に追いやるような真似をするのか? 敵国の間諜だと考えれば話は簡単だったのだが、どうやらそうではないらしい。アレクサンドロスがクレオパトラから聞いたことを打ち明けられたヘファイスティオンは、そのセフェリスのことが気になって仕方がなかった。 かと言って、話の出所を他の者に漏らすこともできず、仲間達の訝しげな視線に答えることもできなかった。 (セフェリス……?) その名に、聞き覚えがあるような気がしてアーシアは眉をひそめた。 どこで聞いたのかはっきりとは思い出せない。だが、自分に覚えがあるということは、オリンポス関係しかないのではないか。 考え込むアーシアの表情に気づいたヘファイスティオンが、何か心当たりがあるのかと訊ねようとした時。 アレクサンドロスが国王から正式な呼び出しを受けたと連絡が入った。 父子の溝が明らかになっている時である。わざわざの召喚に、緊張が走った。 誰もがアレクサンドロスを案じ、密かにその会見を覗き見ようと忍び込んだ。 アレクサンドロスは大広間に呼び出されていた。 玉座にはフィリッポス二世が座し、階下の息子を睥睨している。その瞳には、確かに息子を映しているのに、暖かみといったものが全く感じられなかった。まるで、敵を見据えているかのような目だった。 アレクサンドロスは、内心はともかく外見は怯む様子も見せずに、片膝をついて父王の言葉を待っていた。 しかし、さすがのアレクサンドロスでさえも、平静を装えないのか横目で父王を盗み見た。いや、父の横に控えている少年を。 ハニーブロンドの軟らかい巻毛がその線の細い顔の輪郭を縁取っていた。輝く睫毛が朱色の瞳に影を落とし、少女とみまがう可憐さが溢れている。その肢体は明らかに少年のものであったが、女性とは違った不可思議な魅惑があった。 彼が、セフェリスだ。 アレクサンドロスは、彼を見ていて嫌な気分になった。彼が父を誑かす色小姓だからとか、自分と父を不仲に陥れたからだとか、そんな理由ではなかった。言うなれば生理的な嫌悪である。セフェリスの、何の感情も宿していない瞳が、虚無の闇へと続いているかのようで寒気を感じさせるのだった。 まるで陶器で作られた人形のようだ。 そのセフェリスを、建物の陰から盗み見ている親衛隊の面々の中で、アーシアはやはり首を捻っていた。 名前と同様、その姿も見覚えがあるような気がしてならないのだ。けれど、どうしても思い出せず歯がゆい思いをしていた。 (オリンポスの者かとも思ったけれど、あの少年の放つ気配は人間のものだわ) しかし、アーシアの知る人間とはアトレウスとアレクサンドロスの仲間しかいなかった。では、一体どこで見た覚えがあるというのか? (気のせいなのかしら……) だが、そんなことで悩んでいる時ではなさそうだった。 ようやく、フィリッポス二世が重く響く声を発した。 「アレクサンドロス王子よ、汝に命ずる。兵五百を率いてトラキアに向かい、マケドニアに反旗を翻すマイドイ人を撃破せよ!」 トラキア遠征に反対したアレクサンドロスにあえて下した命令に、広間に控える者が一同にざわめいた。国王の真意が分からず、けれど誰も問いただすことは出来なかった。 父として子に命じたのではなく、国王として配下の者に命じたのである。しかし、当のアレクサンドロスは、狼狽えるでもなく平伏した。 「――――――勅命、確かに承りました」 |
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Truth is no absolute thing , but always relative . =「心理は決して絶対的なものではなくて、常に相対的である」
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