第三章  Truth is no absolute thing , but always relative .








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「まだ何の動きも感じられないようですね」

 王宮に伺候したエウリュティオーンが、回廊の陰でアーシアに囁きかける。
 王宮前の広場では、親衛隊と呼ばれる、アレクのミエザの学問所仲間達が剣の稽古に励んでいた。その光景を眺めながら、アーシアは考え込んだ。

「……確かに、あれから一月が経つが……アレクを殺すとその名に賭けて誓ったアフロディーテが、まだ動く気配もないと言うのが余計に不審に思えるわね。このまま大人しく引き下がる女ではないし……」

 この一月と言うもの、いつアフロディーテが動くのかと神経を尖らせていたアーシアだが、何の騒動も起こらず――――――もちろん、人間同士のいさかいを抜きにしてだが――――――肩透かしを食らったような気分であった。

 いつ仕掛けてくるのかと、受け身の立場である。攻撃を待つ側が不利なことは承知していたのだが、こうも相手の動きが読めないと、苛立ちも募ってくるものだ。
 こうやって気を持たせて、焦慮の色を濃くすることを期待して彼女も待ちの状態に入っているのだろうか?それとも、こちらに気取られないようにじわじわと罠を仕掛けているのだろうか?そのどちらもアフロディーテなら行なうだろうからこそ、迂闊に自分から動くことは出来なかった。

「アテナ女神にお伺いを立てているのですが、どうやらアフロディーテ女神とは一線を画しているようでして、あの方の動きが情報として入ってこないのです」
「でしょうね。アテナとアフロディーテの不仲は有名ですもの」

 愛と美の女神アフロディーテは愛欲と快楽を求める女神でもある。貞節と純血を重んじる女神達(アテナや月の女神アルテミスなど)からは、アフロディーテは淫乱で汚濁に塗れた女神として嫌悪されていた。神話や伝説などでも、アフロディーテと他の女神達とのいさかいは数多く記されているくらいだ。
 横の繋がりが必ずあるわけではない。けれど、彼女の影響力は大きく、この先オリンポスがどのような形で関わってくるか予測出来なかった。

 そんな二人の密談は、第三者の声で中断された。

「おい、アーシア!さぼってるなよ!」

 稽古を抜け出していたアーシアを目敏く見つけたのはリュコスだ。
 彼は剣を肩に背負いながら近づいてきた。彼の剣はギリシアで用いられている通常の剣より一回り以上大きかった。大きいということはもちろん重量が重いということである。それは素早く振り回すにはやや不利であるが、破壊力が増すという利点もある。リュコスは、その体付きから察せられる腕力の持ち主であり、また剣技にも優れているため、実戦に置いて決して引けをとることはなかった。

 その彼が最近剣に置いて優劣をつけがたく思っている人物がいる。

「休んでいるんなら、俺の相手をしろ」
「嫌よ。リュコスの相手をすると疲れるんだもの」

 心底うんざりしたようにアーシアは溜め息を吐いた。

 そう、彼が剣において執着しているのはアーシアの事である。初対面で必殺の一撃をかわされたのが相当ショックであったらしい。彼女が仲間になってからというもの、事あるごとにアーシアに剣の勝負を申し込んでくるのであった。
 最初は律儀に応じていたアーシアであったが、それが一月も続けば嫌気がさすと言うものである。最近では、二回に一回は何らかの理由を付けて避けるようにしていたのだ。

「今度こそ剣技でお前に勝ちたいんだよ」
「三回に二回はリュコスが勝つじゃない。それじゃあ不満だって言うの?」
「回数じゃなくて勝ち方に不満があるんだ。何か体力で勝っているだけみたいで気に喰わん。俺は剣の腕で勝ちたいんだ」

 何が疲れるかというと、リュコスと対戦すると決着が付くまでにとても時間がかかるからだ。剣技の冴えや速さではアーシアの方が勝っているのだが、如何せん体力・持久力ではやはり男性に適うものではない。なまじリュコスも腕が立つので、長時間に及ぶ対戦では最終的にはアーシアの方が根負けしてしまうのだ。

 それはそれで勝利には違いないと彼女は思うのだが、生粋の戦士であるリュコスには納得がいかないらしい。

「なあ、アレク。お前もそう思うだろう?」

 同意を求めようと、丁度通りかかったアレクサンドロスに声を掛けた。
 アレクサンドロスも戦士の魂の持ち主である。彼ならば、自分が何に固執しているか、理解できるはずだと考えてのことだった。

 しかし、アレクサンドロスはリュコスの側にアーシアの姿があるのを認めると、何か物言いたげな表情をしたが、言葉一つ発せずふいと目を反らして去って行ってしまった。

「……どうしたんですか?王子は」

 そんなはっきりしない態度を表わすアレクサンドロスを初めて見たエウリュティオーンは、一体彼に何があったのかとリュコスとアーシアに問いかける。

 リュコスはリュコスですっきりしないような顔つきであったし、アーシアはというと苦笑を漏らしていた。

「……あの……?」
「ああ、大丈夫。ちょっと拗ねているだけだ」

 ヘファイスティオンが近づいて来た。こちらも何やら申し訳なさそうな表情をしている。

「拗ねて……?」

 エウリュティオーンにしてみれば、アレクサンドロスと無縁の言葉だと思い込んでいた 拗ねる という単語に、驚きを隠せなかった。

 アーシアが深い溜め息を吐く。

「やはり私のせいかしらね。側に居るべきではなかったかしら」
「だが、君は間違ったことを言ったわけではないだろう。別にアレクは怒っているわけではないし、嫌ならさっさと君を放り出しているさ。気にすることはない」
「でも、ヘファイスティオンもリュコスも、アレクと同じ気持ちだったのでしょう?」

 言われて、二人とも苦笑いを抑えられない。

「……まあ、どちらかといえば、俺はアレクと同感だけどな。アーシアの言い分が正しいのも分かっているが、それで全てが納得できるわけじゃないからな。だけど、アレクもアレクだぜ。いつまであんなはっきりしない態度を取りやがるんだ」

 三人の会話は、エウリュティオーンには全く理解できないものだった。どうやらアレクサンドロスとアーシアの間に些細ないさかいが起こったようだが、いまだにアレクサンドロスの方はそれをひきずっているらしい。

(アフロディーテ女神の動きが読めない今、お二人の間に溝があるのは良くないことだ。早く和解できると良いのだが……)

 アーシアはアレクサンドロスを守る盾である。その二人の不仲に、エウリュティオーンの心に不安が生じた。









 事の起こりは一週間ほど前に遡る。

 女神アフロディーテに動きが無かったからといって、平穏無事な生活を送れていたわけではない。人間同士のしがらみは神とは無関係であり、望めば全てのトラブルを避けられると言うものでもなかった。

 アーシアが初めて王宮にやって来た時もそうだが、アレクサンドロスを狙って各国から刺客が放たれることがしばしばであり、その都度彼は危難を乗り越えてきた。アレクサンドロスはマケドニア王国の摂政であり、次期国王と目されている人物である。彼が狙われるのは当然といえば当然なのであるが。
 警備の厳重な内宮にまで入り込んでくることから、内通の恐れがあるとの疑いが強くなっていた。

 アステリオンなどは性懲りもなくアーシアを疑っていたのだが、王宮に詳しくない彼女が賊を手引きしたと結びつけるのは難しく、家臣一同を調べ始めた時、再度の襲撃があったのだ。

 食事時の、ほんのわずかな隙を狙ってのことだった。しかし、それもまたアーシアに阻まれたのだった。

 襲撃者は壮年の男一人だった。口髭がたくわえられ、痩せてはいるが鍛えられた肉体の持ち主だった。剣の腕も悪くはなかった。相手がアーシアでなければ、もしもの事があったかもしれない位である。

 剣を弾き飛ばされた男は、喉にアーシアの切先を突きつけられたまま、押さえつけられた。抗う素振りは見せなかった。まるで死を覚悟しているかのように。

「貴様……マケドニア人か?何故、マケドニアの者が王子の命を狙う?」

 アレクサンドロスを後ろに庇いながらクレイトスが問う。

 国内にアレクサンドロスの敵が居ないわけではない。後に述べられるであろうが、血の繋がった兄弟間で王位を巡る争いも展開されているし、フィリッポス王の家臣とも意見を違えることもあるのだ。

 誰と限定することは出来ず、だからこそどこから派遣されたのか知らなければならなかった。

 しかし、男は唇を引き結び、決して言葉を発しようとはしなかった。何も語ることはない、という意思表示であろう。

 男の眼を覗き込んだアレクサンドロスは、その瞳に憎悪と言った感情が全く見られないことに気づいていた。
 個人的な怨恨で自分を狙ったのではない。とすると、やはり命令されて、ということだろう。
 だが、それにしては男の内に燃える決死の覚悟が強く感じられた。ただ命令された、というだけでなく、何か強固な信念を持っているかのように思われるのだ。
 今までの刺客は、命令を遂行しようと殺気立ってはいたが、そこに個人の感情は決して見られなかった。

「……何の為にお前はこんな危険を犯したのだ?」

 男と視線を合わせるように屈み込んだ。

「失敗すれば当然命はないと分かっていたはずだ。それなのに何故…?」
「……」
「家族の命でもかかっていたのか?」

 聡いアステリオンが男の強情さに察するところがあったのか、切れ長の瞳で冷たく見下ろしながら言い放った。
 その途端、男は顔色を変えた。

「図星か……。己の命を惜しむでもなく、しかし何らかの理由があるとしたらそれしかないだろうな」

 蔑む視線。アステリオンには家族の為にという理由は理解できないものであった。自分の命は自分の為に使うのが当然であろうと思っているからだ。

 しかし、アレクサンドロスは心を突かれた。自分よりも家族を大切に思う男の気持ちが、痛い位に伝わってきたのだ。

「大方、家族の命が惜しければ、と脅された口だろうな。こいつのような手合いは、例え拷問しようが口を割らんだろうよ」
「何も喋らないんだったら、生かしておく必要もないわね」

 アステリオンの言葉を受けて、アーシアが切先に力を込める。
 しかし、それをアレクサンドロスが止めた。

「待て!アーシア!」
「どうしたの?」

 突然の制止に、首を傾げるアーシア。何故止められたのか、理由が分からない様子だ。

「命まで奪う必要はないだろう。放免するわけにはいかないだろうが、殺すことはない」

 つまりは、本当は見逃してやりたいと思っているということだ。

 だが、アーシアには納得がいかないらしい。細い眉を顰める。
 この国の刺客に対する刑罰がどのように定められているのか知らないが、それほどの罪とは捉えないのかと思ってしまった。しかし、アステリオンが非難がましい眼でアレクサンドロスを見ていることから、彼の提案が非常識であるのだろうことが窺えた。

「どうしてこの人だけ助けるの?」

 本気で分からないから、正直に尋ねた。

 だが、面と向かって問いかけられたアレクサンドロスは、どう答えようかと迷ってしまった。まさか、そんな質問が来るとは思わなかったのだ。

「別に、彼だけって事はないが……」
「言い方を変えるわ。今回の件の何が刺客を許す条件なの?」
「条件って……」

 アレクサンドロスは戸惑いを隠せなかった。普通ならば、この男を殺したくないと思うのが当然なのではないだろうか?

「彼には家族がいるんだ。命令されたとはいえ、大事な家族の為の行為だったんだ。彼自身の意志ではない。それに、彼が死ねば残された家族が悲しむだろう」

 血の繋がった大切な人達を守りたいと思う切ないほどの気持ちがある。それは誰でも抱くものであるだろうし、その想いは尊いものだともアレクサンドロスは思っていた。男の気持ちが分かるからこそ、断罪するのが辛いのに。

 けれど、アーシアはますます訝しんだ。

「家族の為なら許される行為なの?家族のいない孤独な人間なら殺すけど、家族のいる者なら許してやると言うの?それじゃあ、家族のいる者なら何をしても良いことになってしまうわ」
「そうじゃなくて……!」

 何故自分の気持ちが伝わらないのだろうか。もちろん、人と人とがそう簡単に分かりあえると思っているわけではないが、誰もが持つこの当たり前の想いが何故アーシアには分からないのだろうか。
 もどかしい想いがアレクサンドロスを焼く。

 しかし、さらにアーシアは続けて言った。

「つまり、大義名分があれば罪は罪でなくなると言うことかしら?私にはよく分からないわ。例えどんな人間が行なおうと、結果は同じなのよ。結果に対する報いが違うことなんて有り得ないはずでしょう?」
「……!」

 アレクサンドロスは言葉を失う。それに畳み掛けるように、アステリオンが言葉を挟んだ。

「アレク、お前は温情で持ってこの男を酌量してやりたいと思ったのだろうが、それは理に合わないことだ。罪に対しては相応の罰を与えるべきだろう」
「アステリオン……!」

 アレクサンドロスに、苦渋に満ちた表情が浮かぶ。己の想いが伝わらないことに対する苦しさ、反論の余地が無いことに対する悔しさが表れていた。

 アステリオンがアーシアを支持すると言うのはとても珍しい光景だった。彼はアーシアを嫌っている。それでも、この場では彼女を選んだ。
 非情なようだが、正論を述べているからだ。

 結局、男は捕縛され、牢に入れられた。
 死を与えることは、アレクサンドロスが頑として許さなかった。
 アーシアやアステリオンが納得できる正当な理由があったわけではない。けれど、彼らの言い分を受け入れることがどうしても出来なかったのだ。

 それがしこりを残した。

 それから、アレクサンドロスとアーシアとの間に気まずい雰囲気がある。正確に言うならば、アレクサンドロスがアーシアに対して気まずい思いを抱き、よそよそしい態度をとっていた。






 そして、今に至るのである。















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