第二章  I believe in fate.








V







「お久し振りね」

 アフロディーテは悠然と微笑んでいた。
 もちろん、彼女の視界にエウリュティオーンは入っていない。アーシアだけを見つめる瞳は灼爍と輝いている。

 対するアーシアは、笑みの欠片すらも浮かべてはいなかった。硬い表情は変わらず、アフロディーテをじっと睨みつけている。

「感動の再会だというのに、挨拶の一つもないのかしら?」

 優美という言葉は彼女の為にあるのだろうか。輝くばかりの眩しい微笑が惜しげもなくアーシアに注がれていた。アーシアを見つめる瞳には、懐かしげな光さえ浮かんでいる。

 しかし、アーシアの様子は変わらなかった。
 そんな彼女の非友好的な態度に、アフロディーテは残念とも寂しげともとれる溜め息を吐いた。

「アレスが痛手を負って戻ってきたから一体誰にやられたのかと思っていたけれど、まさかあなただったとはね」

 やはり、用件はそのことかとアーシアは緊張した。
 過日アレスを撃退した時から、自分のことがオリンポスに伝わるであろうことは覚悟していた。いずれはアフロディーテも現れるだろうとも思っていた。
 ただ、予想より早かったことと、彼女が思ったよりも敵意を表していないことが、逆にアーシアに不信感を与えた。いくら友好的な態度を取っていても、自分の邪魔をされたことを苦々しく思っているはずだ。

「……脳を破壊してやったのだけれど、もう動けるようになっているの?タフな男ね」
「さすがにまだ寝込んでいるわ。相手があなたでは、ね」
「恨み言を言いに来たのかしら。あいにくと、大人しく聞いていられるほど暇ではないのだけど」
「理由を聞く位の権利はあるのではなくて?私がアレクサンドロスを狙うわけは察しているのでしょう。それを何故、邪魔をしたのかしら?」
「答える義務もないわ。でも、あなたのつまらないプライドの報復なんて理由がなくても邪魔してやりたくなるけれどね」
「つまらない……と?」

 アフロディーテの微笑みは変わらないが、その瞳に剣呑な光が浮かんだ。

「つまらないが気に喰わないのなら、くだらないと言い換えましょうか?」

 軍神アレスに対した時と同じく、オリンポスの神を相手にしているのだが、アーシアに臆する様子はない。敬意や畏怖を抱いて当然であるのだが、彼女にはそれすらも見られなかった。

 やや機嫌を損ねたようにアフロディーテは鼻を鳴らした。

「私は愛と美の女神よ。その私の愛を人間が拒むなんて、私にとっては最大の屈辱。それをくだらないと言う言葉で片付けてしまうことは許さないわ」
「どうせ本気ではないくせに。あなたの不実で薄っぺらな愛なんて、私にとって見ればくだらないとしか言えないわね」
「ならばあなたは本気の愛を知っていると言うの?誰も愛することも出来ないくせに、愛について講釈を述べようだなんておこがましくてよ」

 睨み合う二人の間に火花が散る。
 まさに一触即発という雰囲気だ。

「……どうあっても、私の邪魔をするというのね」

 ゆらりとアフロディーテの髪が揺れた。彼女から放たれる怒りともとれる神気だ。

「それは私を敵に回すと取ってよいのかしら?」
「敵に回すも何も、かつてあなたと私が味方だったことがあったかしら」

 アフロディーテの怒気をアーシアは真っ向から受け止める。
 真っ直ぐにアフロディーテを見つめる瞳は力強く輝いていた。何者をも恐れぬ強い意志が彼女の内にはあるのだ。

「私はアレクサンドロスを守ると約束した。私の方こそ、私の邪魔をする者は許さないわ。例え、それが大神ゼウスであろうとも」
「ならば、そう約束したことを後悔させてあげるわ」

 アフロディーテの身体がふわりと浮かび上がる。
 アーシアを見下ろすエメラルドグリーンの瞳がキラリと光った。

「私は私の力の全力でもってアレクサンドロスに報復するわ。私の名に賭けて、アレクサンドロスの命で購いをさせるの。それを妨げると言うのなら、やってみなさいな。あなたが己の無力を嘆いて悔し涙を流す姿を心待ちにしているわ」

 そうして、アフロディーテは姿を消した。
 後には彼女の残した香気が漂っているだけだ。

 その香りが不快だったのか、アーシアの眉根が寄っている。白金の髪をなびかせながら、彼女はアフロディーテが消えた空間をじっと睨みつけていた。

 とうとう、オリンポスを敵に回した。
 もちろん、オリンポスの全てがアフロディーテを支持しているわけではないのだが、オリンポスの代表ともいえる十二神の一員である。彼女の影響力は強大なものであるのだ。彼女は己の目的を果たそうと、どのような手段をもとり得るであろう。

 けれど、退くことは出来ない。

 何者からもアレクサンドロスを守ることが、アーシアに課せられた使命なのだ。





「……アーシア殿……」

 二人の女性の、静かではあるが火花散る争いに加わることも出来なかったエウリュティオーンが、ようやくアーシアを呼んだ。アフロディーテの神気に圧倒されて言葉も挟めなかったのだ。

 その声に振り返った時、アーシアはすでに笑みを浮かべていた。
 そして、人差し指を薄紅色の唇に当てる。

「今の話、アレクサンドロス王子にはご内密に」
「し、しかし……」
「王子は立場上、国の内外にも敵が多い。瑣末なことで煩わす必要はないでしょう」

 瑣末、と言う言葉にエウリュティオーンは抵抗を感じた。
 確かに、女神アフロディーテの執着は王子の預かり知らぬことではあるし、人間である彼に神々の気紛れに巻き込まれる義理はない。
 しかし、だからと言ってアーシアにとっては瑣末という言葉で片付けられるほど簡単なことではないはずだ。

 彼女は、神々からアレクサンドロスを守る盾となると宣言したのだから。

 エウリュティオーンには、アフロディーテが何故アレクサンドロスを狙うのか、そして、何故アーシアが彼を守るのか、先ほどの会話からは察することは出来なかった。そして何よりも、二人の関係をどう理解してよいかも分からなかった。

 けれど、確実にいえることは。

 アーシアは、オリンポスを後ろ楯に持つ強大な女神に対して宣戦布告をしたのだ。

 神の怒りを恐れていない彼女の様子に息を呑むことしか出来ない。恐れも敬いの心もないのは彼女が人外の者だからだろうが、それにしても尋常ではない覚悟が必要であることには違いないのだ。

 その勇気に、畏怖の念を抱くと共に憧憬の気持ちも湧き上がってくるのを止められなかった。

 その強さが、羨ましいと思う。

 自分には決してもてないものだからこそ、そう思うのかもしれない。

「……微力ではありますが、私も出来る限りお力になりましょう。私で出来ることであれば何でも仰ってください」
「女神アテナの神官ともあろう方が、オリンポスの神を敵に回そうという私に肩入れするのはお身の為にはなりませんよ」
「アテナは正義を愛する女神。一見したところ、女神アフロディーテに正義があるようには窺えませんでした。それに、女神アテナは私に“己の信ずることを為せ”と仰ってくださいました。私は、アレクサンドロス王子を守るというあなたの言葉を信じています」
「……ありがとう、エウリュティオーン殿」

 己の心を信じる。アーシアは信頼にたる人物だ。何者であるかなど、それこそ瑣末な問題でしかない。
 大切なことは、今目の前にいるこの人なのだ。

(アレクサンドロス王子は本当に良い人物を側に置かれた。得がたい人材であり、この方はあなたの盾となるべくお側に参られたのだ。アーシア殿がついている限り、アレクサンドロス王子の御身は大丈夫だろう)

 そして、願わくば二人の未来に幸多からんことを、と祈る。

 アレクサンドロス王子。
 そして、アーシア。

 二人の行く手には、様々な困難が待ち受けているはずだ。それは試練かもしれない。
 けれど、アーシアとアレクサンドロスならば、必ず乗り越えられると信じられるから。







        ◆        ◆        ◆







 紀元前339年春。

 アレクサンドロスとアーシアの出会いによって運命の歯車が回り始めた。

 ギリシア世界を揺るがす世に名高いカイロネイアの戦いを翌年に控え、アレクサンドロスを中心に歴史が動き始める。







 しかし、よもやそれが人界のみならず天界をも巻き込んでの大戦になろうとは、アレクサンドロスはおろか、当のアーシアでさえも予測することは出来なかった……。














Back
Next




Pray index



I believe in fate. =「私は宿命を信じる」




SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送