第二章 I believe in fate.
U 思いもがけない客人を迎えて、しかし久方ぶりに見るその暖かい笑顔に、エウリュティオーンは自然と微笑が浮かぶのを止められなかった。 別にアレクサンドロスとの関係が悪いわけではない。むしろ、エウリュティオーンの中ではかなり親しい部類に入る。多分、相手も好意を持ってくれているはずだ。 ただ、戦勝祈願の儀式など以外で彼が神殿に来ることはほとんどなかった。古くからのしきたりには従うが、どうやら彼は神頼みは好きではないらしく、勝利は自らの手で掴むものだと思っているらしい。 それだけの力と自信がアレクサンドロスにはあるのだ。 自分の職業が必要とされていないわけだが、彼の人柄の為か、エウリュティオーンが気を悪くすることはなかった。 そんなアレクサンドロスが自ら神殿へと赴いてきたのだ。一体どのような用件かと、好奇心さえ湧いてきてしまう。 「珍しいですね。貴方が私を訪ねてくれるとは」 「たいした用件ではなくて申し訳ないが、少々時間を割いてくれるか?」 「王子のお頼みとあれば」 実は会ってほしい人物がいると言われ、おやと首を傾げる。 「お会いしてどのようにすればよろしいのですか?」 「いや、会ってくれるだけでいいんだ。そうしないと、アステリオンが納得しなくてな」 見れば仏頂面のアステリオンも脇に控えている。 なるほど、とアレクサンドロスの真意がわかってしまった。要は、アステリオンの疑いを解きたいのだろう。彼の性格を十分承知しているエウリュティオーンは苦笑を噛み殺せなかった。 そんなにアステリオンが疑うのはどんな人物なのかと、彼らの背後に従う人影に視線を向けて。 エウリュティオーンは、大きな瞳をさらに見開いた。 白金の髪に琥珀の瞳の美しい娘がそこにはいた。輝く鉱物をそのまま人の形にしたのではないかとさえ思える美貌である。容貌だけで言うならば、新月の下に咲く一輪の白い花、というイメージだろうか。 彼女もこちらを見ていた。何に驚いたのか、顔色を変えている。 しかし、そのようなことは問題ではなかった。 問題なのは。 彼女の放つ気配……! (彼女は一体何者だ……!?) 他の誰も気づかないのだろうか。 彼女の纏う“気”は見たこともないものであった。炎のように揺らめく白い陽炎が彼女から放たれている。 そして、否応にも感じられる圧迫感……! (人間では有り得ない……。しかし、私の知るどの神々とも違う……?) 邪心などの暗い部分は全く感じられなかった。悪しき存在ではないはずだ。自分の感覚を信じるのならば……。 いや、信じてよいのだろうか。 彼女の正体も判別できない己の感能力を。 エウリュティオーンの内に迷いが生じた。 今、エウリュティオーンの視界には、彼女の他は誰も見えていなかった。 いや、見えてはいるかもしれなかったが、見てはいなかった。ただひたすらに、彼女――――――アーシアだけを見つめていた。 まるで時の流れが止まってしまったかのような感覚に陥る。 けれど、実際にはほんの瞬きの間しか時間は過ぎていないのだろう。アレクサンドロス達は何の不審も抱かずに会話を続けていた。 「……というわけで、彼女が俺の護衛に付いてくれることになったアーシアだ」 アレクサンドロスが彼女の紹介をしている。ようやく、エウリュティオーンはアーシア以外の者の声と姿を認識できるようになった。 皆の視線が自分に集まっているのが感じられる。特に、アステリオンのものは鋭く突き刺さるようだ。彼がどのような答えを望んでいるのか、分からないわけではない、が……。 「……エウリュティオーンです」 名乗りつつ右手を差し出す。 握手の意図を悟ったのか、彼女はじっと手を眺めた後、ゆっくりとその手を握り返した。 「……よろしく」 そして、目と目が合う。 その瞬間――――――エウリュティオーンは心を決めた。 「……良い方を側に置かれましたね、アレクサンドロス王子。清廉な方とお見受けしました――――――大事になさるとよろしいでしょう」 「そうか!」 穏やかな微笑で振り向いたエウリュティオーンの言葉に、アレクサンドロスは満面の笑みを浮かべた。アーシアが誉められたことを、我がことのように彼は喜んだ。 対するアステリオンは、明らかに失望した様子で、苦虫を噛み潰したような表情だった。 当人であるアーシアはというと、思案げにエウリュティオーンを眺めてはいるものの、何の言葉も発しなかった。おそらく、自分の心の逡巡を読み取ったのだろう。 確かに、彼女の発する気は尋常ではなかった。 人間ではないのかもしれない。その点では大いに迷った。 けれど。 彼女の瞳は、悪しき心を持つ者では到底持ちえぬ清澄さが現れていた。 アーシアが、アステリオンが疑うような者ではないことは確かであった。そう感じた己の心を信じるのだ。 『己の信じることを為すのだ』 かつて、女神アテナからそのような言葉を賜ったことがある。 だから、信じよう。 自分を。そして、彼女を。 「折角来られたのですから、神殿長にもご挨拶をなさって行ってください」 エウリュティオーンの言葉に、アレクサンドロスはやや渋い顔を浮かべたが、異議を唱えることもなくヘファイスティオンらを引き連れていった。 前述したが、アレクサンドロスがあまり神殿へとくることがない理由の一つが神殿長であった。こちらはアーシアが持つ神官のイメージそのものの、初老ではあるが厳然とした風格を持つ人物であった。 この規律に厳しく硬い意志の持ち主(リュコスは密かに『石頭の頑固じじい』と呼んでいた)が、どうにも若者達には苦手らしい。 なるべくなら顔を合わせることなどしたくもないのだが、神殿に来ていながら挨拶一つせずに帰ってしまっては、後で何を言われるか分かったものではない。礼儀上の問題として、エウリュティオーンの言葉は当を得ているのだ。 アーシアは、一人中庭で待っていた。古来からのしきたりを重視する老人に、アーシアの立場を納得させるのは難しいのではないか、という考えからであった。 いずれは認識をあらためさせるとしても、今日揉めることもないだろう、とアレクサンドロスは苦笑していた。 豪華、というわけではないが、慎ましやかによくまとめられた庭園である。小さな白い花が芳香を薫らせていた。あいにく、アーシアには何と言う花なのか分からなかったが、その香りに惹かれて手を伸ばした。 しかし、自分の名を呼ばれてその手を止めた。 「アーシア殿」 少年のような澄んだ声だと、背後を振り向きながら彼女はそう思った。もちろん外見からは違和感はないのだが、実年齢を知れば驚きを禁じえない。 そこにいたのは、アテナの神官エウリュティオーンであった。 「何か?」 「……お伺いしたいことがあります」 「何でしょうか?」 アーシアは笑みを絶やさない。男であれば、その輝くような笑顔に心惹かれない者はいないであろう。 しかし、その微笑みは他人の心を奪うと共に、己の心を覆い隠してしまう作用を持つ。事実、エウリュティオーンには彼女の内面を読むことが全くと言っていいほど出来なかった。 「貴方は……何者ですか……?」 二人の間を、風が流れる。 アーシアは、彼が何を尋ねたいのか、察していたようだ。己の正体を問い詰められているのだが、顔色一つ変えなかった。ただ、何と答えようかと思案している様子は見られた。 エウリュティオーンはさらに続ける。 「貴方の纏う気は、人間のものではありません……けれど、私の知るどの神々とも異なっています。私は貴方をどのような存在であると判断すればよいのか、分からないのです……」 「では、私からも伺うが」 アーシアは、真正面から彼に向き直った。その瞳は真っ直ぐにエウリュティオーンに向けられていて、決して反らされることがなかった。 (この人は、強い) 先に目線を合わせた時にも思ったのだが、このアーシアという女性の瞳には溢れんばかりの力が輝いていた。 その強さとは、身体的・技術的な面ばかりではなく、精神的なもののことである。彼女の心には、迷いがないのだ。決して内面を読み取らせない女性ではあるが、その瞳に宿る光から、エウリュティオーンにはそう感じられた。 「貴方は私を人間ではない、と仰られた。では、何故アレクサンドロス王子達にそう進言されなかった?貴方の言葉なら、いくら王子といえども疑うことはありますまい。何故、黙っておられたのか?」 なるほど、彼女もその理由を知りたかったのだ。だから、先にエウリュティオーンが彼女の正体について沈黙を守った時に、じっと考え込んでしまったのだろう。 不思議なことだが、エウリュティオーンにはこの時になってようやく、アーシアが身近な、親しみの持てる存在と感じられるようになった。 彼にとって神とははるか高位の存在であり、決して人間臭さを感じさせることはなかった。けれど目の前の彼女は、人外の者であるにも関わらず、疑問や不安(正確には違うかもしれないが)を表していた。 ちょっとした発見のようにも思えて、こんな時ではあるが心が軽くなる。 もはや、彼女に対する怯えや不安は彼の心の中にはなかった。 「――――――貴方の発する気配に悪しきものが見られなかったからです。アレクサンドロス王子を害する意図は感じられませんでした。例え、貴方が人間ではなくても……王子に敵対する者ではない、そう思えたからです」 エウリュティオーンの告白を聞いて、やや驚いたのかアーシアは瞠目していた。彼女にとっては意外な答えだったのかもしれない。 そして、眩しいものでも見るかのように目を細めると、ゆっくりとその唇が笑みを形作った。 「……さすがにアテナが見込まれただけはある。清徹な心の持ち主だな」 どうやら彼女の信頼を得られたようだった。アーシアの、自分を見つめる瞳に少しばかり暖かさを感じられるようになったのは、自惚れではないだろう。 どちらかと言うと、今までは彼女の無機質めいた美しさからはあまり体温が伝わってはこなかった。それが、余計に彼女が人間以外の者であることを助長させていたのだが、ほんの少し温もりが加わるだけでこんなにもイメージが変わってしまう。 おそらく、彼女はまだ人との関わり方を知らないのではないか。 エウリュティオーンにはそう思えた。 「貴方の仰る通り、私はアレクサンドロス王子に危害を加える意志はない。彼を守ることを自分に課している。私が何者であるかということと、彼を守ることは何の関わりもない。今はともかく、かつての私を表す名前があることはあるが……それは過去のものとしてすでに決別した。今さら、名乗るべきことではないわ」 かつての自分を表す名前? 過去のものとして決別した? アーシアの言葉の内容は、その半分も理解できなかった。 ただ、唯一分かることは、彼女は過去と現在との自分を分けて考えている。 そして、過去の自分を捨ててしまっているのだろう。 かつては何と呼ばれていたのかは分からない。 だが、今の彼女は“アーシア”なのだ。 ならば、それでいいのだろう、とエウリュティオーンは納得した。 「ですが、何故貴方がアレクサンドロス王子を守るのですか?」 人外の存在であるアーシアとアレクサンドロスとの接点が思い浮かばない。何故そのような経緯になったのだろうか。 「ある人の願いだから」 「ある人?」 《私も教えてほしいものだわ》 突然、第三者の声が乱入する。 それは肉声ではなく、直接脳へと伝わる心話だったようだ。聞き取ることの出来たエウリュティオーンは、しかし、錐で突き刺されるような鋭い痛みを感じ、額を押さえた。 (この声は……オリンポスの神の……!?) アーシアは頭痛を感じていないようだ。多分、人間であるか人外の者かの違いの為であろう。 ただ、彼女の琥珀の瞳が険しい色を宿していた。鋭い眼光を宙へと放つ。 そして、エウリュティオーンの視界が白く染まった。 煌々と輝く光が凝集すると白く見えるのだと、眩しさに目を細めながら彼は知った。 そう、人の目には映し切ることの出来ないほどの膨大な光量が出現したのだ。 (高位の神が降臨する……!) これは強大な力を持った神が下界に降臨する時に現れる光なのだ。 もちろん、本来は人間の目に映るものではない。これだけの光が現れたのならば、今頃騒ぎが起こっていてもおかしくないのだが、誰も気づいてはいなかった。見えているのは自分と、アーシアだけだった。 アーシアは、泰然とした態度を崩していなかった。鋭利な光をその目に宿しなたら、こう源を睨めつけている。その様から、彼女には何が現れるのかが分かっているらしい。 ようやく光が薄れた頃。 花のような芳しい香気と共に人影が現れた。 光は消えたはずなのに、まだ眩しさを感じて目を眇める。 波打つ豪華な黄金色の巻き毛は、それ自体が光を放っているかのように燦然と輝いていた。鮮やかな真紅の薔薇を髪飾りとし、薄いピンクのキトンにも薔薇の刺繍がふんだんに施されている。長い睫毛が縁取る形のよい瞳はまるでエメラルドの宝石がはめ込まれているかのようだった。芸術的とさえいえる造形の肢体は、薄いキトンによって形が露わになっていて煽情的でさえある。真紅に塗られた唇は蠱惑的な微笑を浮かべており、美しさという点ではアーシアより勝っているだろう。 美の化身、としか言い様がない。 その時になって、ようやくエウリュティオーンはこの女性の正体を察した。 見たことは一度もなかった。けれど、それ以外には考えられなかった。 (女神……アフロディーテ……) |
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I believe in fate. =「私は宿命を信じる」
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