第6章  The future pivots on your decision.








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 厳重な包囲網を、幾人かの犠牲を出しながらもレオーン将軍は逃れ切ったようだった。取り逃がしたとの報告を受け、しかしアレクサンドロスに不思議と悔しさは浮かんではこなかった。
 彼の言った通り、必ず再び戦い合う時が来るはずだ――――――決着は、その時つけることになるだろう。

 ふと見ると、彼の傍らを神妙な面持ちをしたアーシアが立っていた。何かを窺うような視線に怪訝な思いが浮かぶ。

「どうした?」
「……言い訳するつもりは無いわ。どんな処罰でも受けるつもりよ」

 躊躇いがちに伏せられた瞳に、それがラーイオスに対しての事だと察せられた。

 確かに、アレクサンドロスの内にも苦い思いが残った。例え反逆者とはいえ、父を同じくする兄弟だったのだ。彼の死に、感じるものが無いと言ったら嘘になるだろう。

 ……それでも。
 彼女にそれ以外の選択が無い事も分かっていたし、アーシアがあの時かなりの苦慮を迫られた事もアレクサンドロスは気づいていた。

「……ラーイオスの件に関しては何の咎めもなしだ。父王がそう決定された」

 苦い思いでアレクサンドロスは呟く。

 実の息子に反逆を起こされたフィリッポス二世はかなりの衝撃を受けていた。もしラーイオスが生きていたとしても、死を宣告したに違いない。それ程の憤怒を顕わにしていたのだ。
 そして、再び同じ事が起こるかもしれないと、さらにアレクサンドロスに対して警戒するようになってしまった。暗殺と叛乱を防いだアレクサンドロスには何の労いも無く、ただひたすらにアレクサンドロスの力を恐れるようになったのだ。

 ……父との関係の修復はもはや有り得ないのかもしれない、とアレクサンドロスですら諦念の感が心を過ぎる。






 ラーイオスの叛乱に関しては、彼の嫉妬を煽ったゼロスの仕業でもあるので、アーシアも心に重いものを感じていた。もっと早く気づいていれば、未然に防げたかもしれないと、自責の念が浮かぶ。

 フィリッポス・アッリダイオスの内通の件は、実はアレクサンドロスには知らされていなかった。これはヘファイスティオンの判断である。
 意識を取り戻したフィリッポス・アッリダイオスは、己の犯した罪についての一切が全く記憶に残っていなかったのである。やはり深層心理を操ったものであろうとアーシアが言うと、ヘファイスティオンは彼の罪をこのまま闇に葬る事を提案した。

「ただでさえ、ラーイオス様の事で痛手を受けているんだ。その上、あのアッリダイオス様まで裏切っていたと知ったら……例えアッリダイオス様ご自身の意思ではなくても、アレクの心に深い傷を残すだろう」

 そのヘファイスティオンの言葉に、アーシアは異議を唱えなかった。その方が良いと、彼女も思ったからだ。

 くすっと言う笑い声が聞こえて、アーシアは思考の底から意識を戻した。
 見ると、アレクサンドロスが彼女を見てほんの少しではあるが微笑を浮かべているではないか。

「……何?」
「いや、ちょっとな……」
「……?」

 理由が分からず困惑しているアーシアの表情を見て、さらにアレクサンドロスは笑みを深くした。

 彼女は覚えているだろうか?以前アーシアが来たばかりの頃に、刺客に対する処罰の事でアレクサンドロスと意見の食い違いがあった時の事を。

『例えどんな人間が行おうと、結果は同じなのよ。結果に対する報いが違う事なんて有り得ないはずでしょう?』

 そう言ったのはアーシア自身だ。
 あの時の彼女は、罪は罪として相応の処罰を与えるべきだと考え、それを迷いも無く実践していたというのに。






 今の彼女は、ラーイオスを切る時に明らかに躊躇した。

 自惚れでなければ、彼女はラーイオスを殺す事によって自分に与える影響を懸念したのだろう、とアレクサンドロスは思う。






 彼女の変化はアレクサンドロスにとって非常に好ましいものであった。彼女の表情も、最初に会った頃と比べるととても豊かになっている。あの頃は、優しげな微笑を浮かべてはいても、温もりが伝わってくる事はなかったが。今はふわりと笑うだけで心が温かくなる気がする。
 今の彼女をアステリオンが見たらどう思うだろうか?決して他国の刺客だと疑う事など出来ないだろうに。

 そこまで考えて、アレクサンドロスは違和感を感じた。

(そういえば、今日アステリオンは来ていなかったんじゃないか?)

 アレクサンドロスの胸内に、不安という黒い靄が立ちのぼる。周囲を一瞥し、彼の姿がないことを改めて確認してから、アレクサンドロスはヘファイスティオンに訊ねた。

「ヘファイスティオン、アステリオンはどうしたんだ?」
「……確かにいなかったが、何も聞いていないぞ」

 言われてから、ヘファイスティオンの方もそういえば、と考え込んでいた。
 こんな事は初めてであった。几帳面なアステリオンなら、必ず連絡を入れるはずなのに。

「気にすんなよ、アレク。きっと拗ねてるだけだぜ」

 呑気に答えたのはリュコスだ。

「拗ねるって……」
「最近アレクが自分の意見を取り入れないもんで、不貞腐れてるに違いないさ。放っとけ」
「意見を取り入れないって……俺はそんなつもりじゃ……」

 その時その時で、最良と思われる手段をとっているだけのアレクサンドロスに、アステリオンを蔑ろにしている意識は無かった。彼の意見が間違っていると否定した事も無い。

「それ位奴だって分かってるだろうさ。頭は良い奴だからな。その内浮上するだろうから放っとけって言ってんだよ」
「……」






     ◆      ◆      ◆






「……ゼロスは消滅したようね」

 天界のアフロディーテの宮で、その館の女主人は腕組みをしながら伝えられた報告を聞いていた。

「申し訳ありません、満足な働きも出来ずに……」
「最初からゼロスが彼女に敵(かな)うとは思ってはいなかったわ。それに十分役に立ってくれたわよ」

 主人の怒りを買わないかとひたすら頭を下げている従者に、しかしアフロディーテはニコリと微笑んだ。

「リュッサの方はどう?」
「姫様の目論見通り、上手く人界に潜り込めたようです」
「そう、これで布石は揃ったわね」

 うっとりと笑うアフロディーテだが、次の瞬間、彼女の花のような顔(かんばせ)は強張った。

 円柱の背後に、何者かの気配があった。
 険しい視線を向けると、アフロディーテは侵入者を断罪すべく力を放つ。






 円柱ごと粉々になるはずの力の塊は――――――しかし直前に分散させられてしまった。






「手荒い歓迎だな、美の女神ともあろうものが」

 黒い影が現れた。漆黒の長い髪を無造作にたらし、この豪奢な宮殿には明らかにそぐわない質素な身なりをしている。長い前髪の隙間から覗く両の目は金色の光を放っていた。






「プロメテウス……!」






 アフロディーテは柳眉をつり上がらせて彼を睨みつけた。先に彼女の愛人でもある軍神アレスの邪魔をしたのが彼であったからだ。

「ゼウス様の目をかすめてよくぞオリンポスに忍び込んだわね。そのお前が私に一体何の用なの?」
「忠告に来たまでだ」
「忠告?」
「彼女に対する下手な手出しは止めた方が良い。この世界を存続させたいと思うのならばな」
「……世界の命運がかかっているだの何だの、アレスに戯言を吹き込んでいたわね、お前は」

 嘲笑がアフロディーテの唇に浮かぶ。プロメテウスの言葉を信じていないのは明白であった。

「戯言ととるのはそなたの勝手だ。が、そなたの自分勝手な遊戯を続ければ、待っているのは身の破滅だけだ。世界にとっても……彼女にとっても、な」






 彼女――――――とはアーシアの事か。






 最後に付け加えられた一言に、アフロディーテは過敏な反応を見せた。
 髪飾りの真紅の薔薇を一輪つかむと、それをさっと振るう。その小さな動きが、しかし鋭い風の刃を生じてプロメテウスの頬に一筋の傷を与えた。

 鮮やかな色の血が、滴り落ちる。

「……命が惜しくば消えなさい」

 脅しではなく、本気であった。アフロディーテからは、明らかにプロメテウスに対する殺気が迸っていた。

「命は惜しくは無いが……用は済んだ。確かに、忠告したぞ」

 くるりと背を向ける。背後から襲い掛かられる事など考えてもいないような無防備さだ。アフロディーテは、一瞬本気でこの男を殺そうかと薔薇を握る手に力を込めた。

 その白い指先が、強張った。
 振り返らないままのプロメテウスから紡がれた台詞を、聞いて。






「……リタイが、動き出した」






 アフロディーテの瞳が見開かれた。

「彼女は地上で一度力を解放した。一瞬だけの解放は、彼女を探す他の輩に居場所を教える事は無かったが……さすがにリタイだけは探し当てたようだ」
「……リタイ……が……」

 呆然と呟くアフロディーテを横目に、プロメテウスは言いたい事は全て言ったとばかりに姿を消した。

 しかし、アフロディーテは立ち尽くしていた。彼女の手から、薔薇の花が力を失ったように縞瑪瑙の床に落ちる。

 リタイの存在を忘れていたわけではなかった。けれど、アーシアは力の封印を己に課していたので、決して彼女の存在があらわになる事は無いだろうとタカをくくっていたのは事実だった。

『待っているのは身の破滅だけだ。世界にとっても……彼女にとっても、な』

 プロメテウスの台詞に、唇を噛む。






「……させないわ、リタイ。彼女は私の獲物よ」














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The future pivots on your decision. =「未来は君の決心で決まる」




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