――――快楽は心を石に変えるかもしれない

      富も心を冷酷にするかもしれない

      しかし、哀しみは心を壊すことはできない

      かえって、傷つくことで心は生きる――――――





         『ワイルド蔵言集』O・ワイルド著(西村孝次訳)







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Undeniable Despair

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琥珀の章-act.4











 アシュヴィンは自己嫌悪に陥る。

 シャラを救う為に己の感情を殺すつもりだった。土下座さえも厭わない、そんな覚悟でいたはずだった。だが、現実はどうだ?感情的になってしまい、シャラを救うどころか、その命さえも危うくしてしまったではないか。

「あの坊やを助けたいか?」

 聞き覚えのある声。振り向くと、いつの間にか背後に群青色の瞳と髪を持つ妖魔の青年が立っていた。シャラの拉致をアシュヴィンに教え、アドゥディーパへ行くようにと示唆した青年妖魔だ。だが、ニヤニヤとした笑みはどちらかといえば人間くさい仕種であった。アシュヴィンの苦悩を楽しんでいるようなそれに、アシュヴィンは冷徹な瞳を返した。

「当たり前だ」

 アシュヴィンの冷ややかな視線にも青年は肩を竦めるのみだ。

 アシュヴィンは警戒するように目を眇めた。この男の本心が読めない、何を考えているかわからなかった。危険――――――胸の内でそう囁く声がある。

「だったら、プラティシュターナ様の所へ行く道を教えてやろうか?」
「……何故だ?」

 男の目的が掴めず、アシュヴィンは警戒を解くことができなかった。一見親切そうに助言してくれているようにも見えるが、相手は妖魔なのだ、目論見がないわけがない。

 だが、青年の答えはアシュヴィンの意表をついた――――――そして、別の衝撃を与えた。






「母の命令を子が聞くのに理由がいるのかい、兄上?」






 プラティシュターナを、母と呼んだ。

 そして、アシュヴィンを――――――兄、と。






 彼が初めてアシュヴィンの前に現れた時、プラティシュターナの配下の妖魔だろう、とアシュヴィンは思っていた。彼女を様呼ばわりしていたこともあるし、何より、アシュヴィンは自分に弟――――――と認めるのはかなりの抵抗があるのだが――――――がいることを知らなかったからだ。それが。

 アシュヴィンとは異なり、完全に妖魔の気配を持つ……弟、とは。

 灰を噛み締めたような苦い思いが胸に滲む。アシュヴィンは、眉をひそめて吐き捨てた。

「……私は貴様の兄などではない」
「兄さ……一応な」

 強調した言葉に、アシュヴィンの眉が不快そうに寄せられる。
 そんなアシュヴィンの様子に、青年はくくっと咽喉を震わせた。

「変な意地を張ったところで、坊やが助け出せるわけでもないだろう。来いよ」

 言いながら、青年妖魔が右手をかざした。
 右手先に、黒い、渦のような闇が揺らめいた。空間が歪んだ――――――いや、正確には異次元と繋がったのだ。

「プラティシュターナ様は異次元の闇の城におられる。そして、そこに行くには迷宮を通らなければならない」
「迷宮には罠が仕掛けてある、というわけか」
「頭のいい奴は好きだよ」
「貴様に好かれたくなぞない」
「つれないな。ま、健闘を祈るよ」

 ひらひらと手を振って笑う青年を一瞥し、アシュヴィンは迷宮の通路へ一歩足を踏み出そうとした。しかし、不意に肩越しに振り返る。

「貴様の名を聞いておこうか」
「クルラージャだよ、兄上」
「……一言多い」

 もはや兄呼ばわりされようと心が揺れることはないのか、無表情に言葉を投げつけると、今度こそ躊躇わずにアシュヴィンは異次元へと足を踏み入れた。

 空間の歪みを通り抜ける際、身体が捩れるような奇妙な感覚が襲った。こみ上げてくる嘔吐感を何とか堪える。しかし、それはほんの瞬きの間だけのことであった。

 アシュヴィンの足は、いつの間にか大理石のような床石を踏んでいた。見渡せば、すでに空間の歪みは消えていて、神殿のような内装が見えるだけだった。ここはすでに迷宮の中らしい。そして。

 ……アシュヴィンが足を踏み入れたその時から、空間には敵意が渦巻いていた。

 アシュヴィンは無言で『紅夜叉』を抜いた。クルラージャの言葉が真実のものなら、迷宮内には罠が張り巡らされているはずなのだ。危険――――――しかし、進むしか道はない。

 アシュヴィンは歩き出した、迷宮というだけあって、縦横無尽に広がる通路に方向感覚が狂わされる。どこへ向かえば迷宮を抜けられるかもわからない現状であるのだが、かといって立ち止まっていても何にもならないだろう。無意味かもしれないが通路に『紅夜叉』で印をつけながら、アシュヴィンは慎重に歩みを進めていった。

 ポウッ
 空間に一つの青い鬼火が現れた。

 アシュヴィンが身構えると、瞬く間に鬼火の数が増え――――――唸りを上げて次々にアシュヴィンへ向かって飛来して来た。
 しかし、こんなものが通用するか、とばかりに紅夜叉を一閃させると、あっけなく鬼火は吹き飛ばされ、掻き消えてしまった。そして全ての鬼火が消え……再び、迷宮内に静寂が戻る。

 まずは小手調べ、ということなのだろう。この光景を、余さず見ている者がいるはずだ。それがプラティシュターナか、それともクルラージャなのかはアシュヴィンにもわからなかったのだが。

 紅夜叉を一振りして鬼火の残滓を払いのけると、アシュヴィンは再び歩き出した。が。

「……若君……」

 しわがれた声が明らかにアシュヴィンの背にかけられ、ハッと振り向いた。

 そこには、黒いマントを羽織った、子供ほどの身長しかない人影がたたずんでいた。目深に被ったフードで陰になって輪郭も定かではないが、影の奥深くから覗く二つの真っ赤な瞳がぎらつきながらアシュヴィンをじっと見据えていた。

「尊き御方よ。剣を捨て、我が君の元へ参られませ」
「断る」

 アシュヴィンは即答した。我が君というのはプラティシュターナに事であるに違いない。この小男が何者であるかはわからないが、妖魔であることだけは確かだ。相手が下手に出ているからといって気を許すことはできないと、警戒は解かなかった。

「何故です、貴方様は偉大なる妖魔七王の一人、プラティシュターナ様の御子ですぞ。それが、どれほど栄誉な事かわからぬのですか!?」






 妖魔七王。
 このアーシュムーシュに存在する妖魔は数多いるが、その中でも最も強大な力を持つ恐るべき七つの存在が、『妖魔の王』の名を冠せられ、妖魔の世界に数多くの配下を従えて君臨していた――――――プラティシュターナは、その七王の一人であったのだ。






 その偉大な存在の血を受け継ぐのだと、小男は訴える。

 しかし。








――――――私は人間だ」

 男のざらついた声に嫌悪感を感じながら、アシュヴィンはキッパリと吐き捨てた。

「あの女が妖魔七王の一人だろうが私とは何の関係もない。あの女の元へ行けというのならば行ってやろう、ただし、殺す為にな!」






 母である存在をその手で殺すと、アシュヴィンは宣告する。

 ……はたして、本当に出来るのかと、自身で疑いながらも。






「……では、私は貴方様を殺さなければなりませぬな」

 小男がキッと顔を上げた。フードに隠された顔が顕わになる。男は、人間とは異なり、爬虫類のように平たく緑の肌をしていた。目はドロンと濁り飛び出ていて白目がない。鼻はかろうじて空気穴のようなものがあるとわかる程度で、唇は分厚く顔の半分を占めるような大きな口だった。顔のそこかしこにイボのような突起が出ており、腐った水草のような臭いを振りまいている。

「やはり妖魔は信用できんな。あの女の元へ戻れと言ったその口ですぐに私を殺そうとするのだからな」
「我が君と仰ぐ方はプラティシュターナ様ではない!」
「何?」

 妖魔の不誠実さを揶揄ったアシュヴィンであったが、目前の爬虫類のような妖魔の主人がプラティシュターナではないと聞き、怪訝そうに眉をひそめた。ここは彼女の闇の城へと通じる迷宮で、別の妖魔の王の配下のものがいるとは考えにくいからだ。

「我が君とはあの方だけ。尊き血を引き、妖魔七王にも勝るとも劣らぬ力を持ちながら母君に疎まれているあの方。あの方が誰よりも秀でていると認めさせる為にも、片割れである貴方は死なねばならない。あの方よりも力弱い者に殺されれば、貴方は不甲斐ない、頼りになるのはあの方と母君は認めてくださる!」

 しわがれた声が台詞を言い終えると同時に、爬虫類のような妖魔はは口を大きく開き青黒い液体を吐き出した。重力に逆らい、減速せずにそれはアシュヴィンへと向かって飛来する。

 己に向かってくる青黒い液体を、紅夜叉で薙ぎ払おうと構えたが、嫌な予感がしてアシュヴィンは剣を収めとっさに身を沈めた。
 青黒い液体は彼がいた場所を通過し、その勢いのまま背後に鎮座する柱へと弾けるように付着した。すると……白い煙を吐き出しながら、付着した部分からずるずると柱が溶け出したではないか。あの青黒い液体は強力な酸なのだ。紅夜叉で受け止めなくて正解であった。幾ら魔剣とはいえ、酸が降りかかれば刀身はボロボロになってしまっただろう。

 慎重に紅夜叉を身構え、爬虫類男とじりと対峙しながら、それでもアシュヴィンは先の言葉の意味を脳裏に思い浮かべる。

『我が君とはあの方だけ。尊き血を引き、妖魔七王にも勝るとも劣らぬ力を持ちながら母君に疎まれているあの方』

 『あの方』とはおそらくクルラージャのことだ。
 しかし……『母君に疎まれている』とは?

 再び、爬虫類男が酸を吐き出した。しかし、相手の手の内がわかっているアシュヴィンは慌てることなく余裕でそれを避ける。そして、そのまま相手を切り伏せようとして。

 爬虫類男は、酸を避けながら紅夜叉の切っ先を振り下ろそうとするアシュヴィンに向かって両手を突き出した。やはり爬虫類のように水かきのある手であった。しかし、突き出した掌の勢いはそこで止まらず――――――ゴムのような異様な伸びを見せて、アシュヴィンの身体に巻きついたのだ。

「しまっ……!!」

 カランッと音を立てて、紅夜叉がアシュヴィンの手から落ちる。
 アシュヴィンの身体は、爬虫類男の伸びた手によって宙へとぶら下げられた。弾力のある、粘ついた感触に鳥肌が立つ。しかし、脱出しようともがくが、巻きついた手はびくともせずに締め付けてくるのだ。

「これで、逃げられますまい」
「……酸を吐くか?そうすればお前の腕も傷つくぞ」
「残念ながら、我が体液が我が身体を損なうことはありえませぬ。傷つくのは貴方のみ」

 ニタリと、爬虫類男が笑った。白目のない真っ赤なめがぎらりと光る。いやらしい笑い方であった。

「こんなものですか、貴方の力は。プラティシュターナ様のご子息というからどれ程のものと思えば、ガッカリですね。我が君と比べようもない」
「あの女と関係あると思われるのもご免だが、私の力が足りないと思われるのは癪だな」
「いつもでそんな強がりを言っていられますか!?」

 爬虫類男の口が、酸を吐き出す形になった。

 瞬間、アシュヴィンは呼んだのだ。






「紅夜叉!!」

 自分の、剣を。
 彼を主人に選んだ魔剣を。






 アシュヴィンの声に呼応するかのように、大理石の床の上の紅夜叉の刀身がカタカタと揺れた。そして――――――次の瞬間にはふわりと宙に浮き、ひとりでに空を裂くように飛んでいった。己の主人を害する者へと向かって。






 紅夜叉は。
 鋭く飛来し……爬虫類男の胸の真ん中にその刃を自ら突き立てたのであった。

「ぐはっ……!!」

 口から大量に青黒い液体があふれ出す。。自分の胸から生えている剣先を、妖魔は信じられぬ思いで見つめた。

「こ……んな……馬鹿な……」

 異臭を放ちながら爬虫類男の身体がずるずると溶け出し、その姿かたちを崩していった。力の抜けた手の呪縛から抜け出すと、アシュヴィンは崩れる肉体から紅夜叉を抜き取った。






「……自分が選んだ主人の命は守る……だから、“魔剣”なのだ……」






 苦い思いで、呟く。

 この剣に、何度生命を救われただろう?
 ……何故、自分が選ばれたのかと、憎んだこともあったのに。






 グッと紅夜叉を握り締めると、アシュヴィンは胸内の思いを振り捨てるように再び迷宮を進みだした。










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