――――快楽は心を石に変えるかもしれない

      富も心を冷酷にするかもしれない

      しかし、哀しみは心を壊すことはできない

      かえって、傷つくことで心は生きる――――――





         『ワイルド蔵言集』O・ワイルド著(西村孝次訳)







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Undeniable Despair

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琥珀の章-act.2













 その噂が塔の中でまことしやかに囁かれるようになったのは、シャラシャーインが失踪して1週間が経った頃であった。人の口に戸は立てられぬ、ということで、塔の上層部が必死に隠そうとした事実を知らぬものは、今や塔に一人もいなかった。






 すなわち、シャラシャーインの行方不明。

 ――――――ならびに、生死不明。






 あのシャラシャーインに何が起こったのかと、興味本位な者たちの意見が幾つもあげられた。

 妖魔に倒され、命尽きた。
 シャラの美貌に興味を持った人間が力づくで拉致した。
 塔を脱走した。

 そのどれもが証拠もなく信用性がないことが、いっそう塔の住民の興味を引き、好奇の噂は絶えることがなかった。

 ……皆がその噂に目をひかれていて、シャラシャーインの失踪の翌日にアシュヴィッターマンが女長のところを訪ねたことに誰も気づいていなかった。そして。






 ――――――その次の日に塔からアシュヴィッターマンの姿が消えたことも、当然知る者はいなかった。


















 話はシャラが女妖魔と遭遇した一刻ほど後のことまでさかのぼる。

 その頃、アシュヴィッターマン――――――アシュヴィンも、単独で任務についていた。こちらは別に人手が足りなかったというわけではなかったのだが、その任務が持ち込まれた時にたまたま暇を持て余していたのが彼だったので、パートナーもつけずに任地へと赴いた。そして、彼の実力では全くの難題ではなく、すぐさま任務を終えて塔に戻るところであった。シャラとの違いは、別に一人旅を徒歩で気ままに楽しもう、という気は更々ないらしく、さっさと転移門を使って帰ろうとしていたことだろう。






 そんなアシュヴィンの前に、“彼”は現れた――――――突然に。






 一瞬前までは確かに姿も気配すらなかったはずの“彼”は、群青色の髪に同色の瞳を持つ、甘い顔立ちの青年であった。身に纏う黒衣が全くの気障ではなく、その整った顔には笑みが――――――明らかに見下すような笑いが浮かんでいた。好奇の色を隠そうともしない。

 そして、彼には――――――影がなかった。

「初めまして……と言うべきかな」

 その笑みを浮かべたままの唇からは、バリトンの、決して好意的とはいえない口調の声が流れ出した。どこか人間らしさを感じさせない、飄々とした声だった。

 アシュヴィンは答えずにジッと青年を凝視した。
 彼の眉が訝しげに寄せられる。しかし、呼び止められる心当たりがない、というよりは、何故青年に呼び止められたのかがわからない、そんな感じであった。

 それがわかるのか、

「なるほど、心当たりはあるようだな」

 と群青の瞳の青年はクスリと笑った。その言葉の裏に、さすがにそこまで鈍くはないか、という嘲りが確かに含まれている。

「……何しに来た?」

 目は青年から離さず、それでもアシュヴィンは尋ねた。
 そう、何しに来た?わざわざ会いに来たのは何故だ?今さら何の用があるというのだろうか?

 アシュヴィンの内心を読み取ったかのように、青年はにやりと笑った。

「つれないな。面白いことを教えてやろうと思ったのに」
「何だ?」
「おや、聞いてくれるのか?」
「聞かせたいのはそちらだろう。さっさと言え」
「人間とは思えないほどの薄情さだな。ま、他人のことは言えんが……」
「さっさと言えと言っている。言葉がわからないほど愚かではあるまい」

 明らかに人間とは思えない――――――姿、態度からしてかなりの上級妖魔と思われる――――――青年にさえ、アシュヴィンは容赦なく辛辣で無遠慮な言葉を投げかける。八つ裂きにされても文句は言えない態度であるが。

 しかし、この男はそんなことは全く気にしていないのか、面白そうに笑い声を上げた。

「はははっ、あいにくと人間の言葉はよくわかる方だ。しかし、せっかちな奴だな。短すぎる生命であるが故に、生き急ぐのもわかる気はするが……おっと、睨むなよ」

 アシュヴィンの琥珀の瞳が細められ、その左手が魔剣『紅夜叉』の柄にかかったのを見て、青年は肩を竦めた。その動作の一々がアシュヴィンを苛立たせているのを、承知で。もちろん、楽しんでいるのだ。

「まあ、あんまり苛めても気の毒かな、本題に戻るとするか……あんたの大切な相棒のことなんだが」
「大切な?相棒?」

 アシュヴィンはまたも訝しげに眉を寄せた。シラを切っている、というよりは全く心当たりがない、といった方が正しいようだ。

 驚いたのは妖魔の青年の方だった。まさかアシュヴィンがそんな反応をするとは思ってもみなかったのだろう。

「本っ当に薄情だな、あの、夕闇色をした瞳の坊やのことだよ」

 夕闇色の瞳、という形容に、アシュヴィンの脳裏にシャラが浮かぶ。
 確かに、唯一相棒と呼べるのは彼しかいないだろう。だが、“大切”という言葉には真剣に首を捻った。

「大切でも何でもない」
「おやおや……それにしては随分と感心を持っているとお見受けしたが?まあ、そんなことはどうでもいいんだが、そのボウヤをプラティシュターナ様がご招待したよ」
「何!?」

 初めてアシュヴィンが顔色を変えた。
 招待とは、つまり……。

「早い話が、あの坊やはプラティシュターナ様に拉致された、というわけだよ」

 青年にわざわざ解説されなくともアシュヴィンには“招待”の意味がわかっていた。幾らシャラが桁外れの力を有していようと、所詮は人の身。下級妖魔ならいざ知らず、上級妖魔の、しかもあの女ほどの存在にはやはり力では敵わないだろう。

 しかし、問題は、何故プラティシュターナがシャラを拉致したのか、だ。
 シャラとプラティシュターナの間には何の繋がりもない。それなのに、何故?

 疑問が表情に表れたのだろう、そんなアシュヴィンを面白げに見つめた妖魔の青年は、群青色の瞳をおかしげに輝かせてヒントを与えた。

「あの坊やは単なる餌だよ。言っただろう?あんたが他人に感心を持つなんて珍しい事だって。つまりは、そういうことさ」
「……!」

 アシュヴィンは絶句した。
 それでは、自分の為にシャラを巻き込んでしまったのか!?だが、何故……。

「……何故、私を……?」
「さあね、自分で考えるんだな」

 投げやりに言い捨てると、青年は異空間に消えようとした。
 それを、アシュヴィンが呼び止める。

「待て!」
「ん?」
「餌というからには、シャラはまだ生きているんだな!?」
「生きてるよ」

 シャラが生きている、と聞いて、ひとまず安堵の息をつくアシュヴィンである。取り敢えず、彼の身の安全は保障されているわけだ。その役割を終えるまでは……。

「……私があの女の所に出向けば、シャラを無事に返すか?」

 それは、アシュヴィンにしては弱気な発言であったかもしれない。
 しかし、シャラが敵わない相手に立ち向かうのは自殺行為といえるのだと、アシュヴィンは理解していた。死ぬのは怖くなかったが、他人の命がかかっているとなれば話は別だった。

 アシュヴィンにとっては、シャラがいつどこでどんな風に死のうが知ったことではなかった。自分に何の関わりもなければ。

 ……しかし、今は状況が違う。今、シャラの命は危険にさらされている。アシュヴィンの問題に巻き込まれた為に。

 借りを作るなど冗談ではない、とアシュヴィンは思う。どんなに気に食わない相手であっても、自分の為に死なせてしまうことを決して甘んじて受け入れられはしなかった。相手に自分の弱みを見せたくない、とも思うのだ。

 彼に関心を持っている、と青年は言っていたが、それは違うと思う。相性が悪すぎるだけだ。何故、こんなにもシャラのことを気に食わないと思っているのかは自分でも明確ではなかったのだが。

 アシュヴィンはそう思っているのだが、幾ら自分の為に危険な目にあわせたとはいえ、本当に何とも思っていない人間なら迷わず切り捨てる冷徹さがアシュヴィンにはあるはずだった。そういった点で言えば、確かに関心を持っているといえるだろう。それが、好意からは程遠いものであっても。

 自分心の動きをはっきりとは掴んでいなかったが、取り敢えずシャラを助ける為に彼と自分の身を交換しよう、とアシュヴィンは心を決める。とにかく、彼さえ助け出せれば後はどうとでもなる。そう思っていたアシュヴィンの耳に、しかし非情な声が届いた。

「保障は出来んよ」

 アシュヴィンはギリッと青年妖魔を睨んだ。燃えるような琥珀色の瞳の強い輝きに、しかし青年は一向に堪える様子を見せなかった。

「仕方がないだろう、プラティシュターナ様は思いのほかあの坊やがお気に召したようだからな。そう簡単に手放すかどうか」
「……!!」
「まあ、どうにかしたけりゃアドゥディーパに来るんだな。どうするかはあんたの勝手だがな」

 他人事のように(まあ、実際他人事であるが)気のない言葉を残して、今度こそ青年妖魔はその場から姿を消した。

 一人取り残されたアシュヴィンは、しばし呆然と立ち尽くす。全く、わからないことだらけであった。






(……何故、今さら私に関わるのだ?)






 ――――――もう、遠い記憶の片隅に追いやって久しいのに。






 何故、ここで待ち伏せされていたのかはわかった。塔の周りには結界が張られていて、いかな強い力を持つ妖魔でも破ることは叶わず人間以外の者は一歩たりとも中へは入れない。シャラを外で襲ったのもそのせいなのだろう。

『アドゥディーパへ来るんだな』

 青年の声が耳に残っている。






(来いと言うのなら行ってやろう)

 どの道、とるべき道は一つしかないのだ。






 とにかく一旦戻るべきだとアシュヴィンは判断した。シャラについての詳しいことは、もしかしたら女長が知っているかもしれないからだ。

 塔に戻るべく、アシュヴィンは転移門へ向かって再び歩き出した。














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