――――快楽は心を石に変えるかもしれない 富も心を冷酷にするかもしれない しかし、哀しみは心を壊すことはできない かえって、傷つくことで心は生きる―――――― 『ワイルド蔵言集』O・ワイルド著(西村孝次訳) |
++++++++++++++++++++++ Undeniable Despair ++++++++++++++++++++++ 琥珀の章-act.1 |
今回のシャラの仕事は珍しく一人きりであった。 いつもなら、有無を言わさず剣宮一の腕を持つ、魔剣『紅夜叉』の主と組まされるのだが、仕事自体が比較的楽なこともあって、単独でよいと許可されたのだ。 まあ、確かにただの下級妖魔退治なら、シャラの腕前なら誰かと組む必要などないのだ。事実、彼はあっという間に任務を完了させてしまっていた。 何でも、アドゥディーパという地方――――――塔の西に位置する大きな領土を誇る王国である――――――の大きな農村で、村娘がさらわれて喰われるという事件が何件も起き、人肉を食べるのは下級妖魔の仕業であろうと術師の派遣が決定されたのだそうだ。 普段であれば、こんな簡単な任務にあの女長ユディシュティラはシャラを出そうとしないのだが、現在ちょうど色々な仕事が舞い込み、手の空いた妥当そうな魔術師がいなかったのでしぶしぶ承知したらしい。シャラのような力のある術師は大事が起こった時の為に待機していて欲しいというのが本音のようだったが。 そして任務完了後、つかの間の一人旅を有意義に過ごそうと、転移門を利用せずに徒歩で帰路についているシャラである。 アドゥディーパから塔まで徒歩で戻ろうとすれば早く見積もっても2週間はゆうにかかってしまうのだが、戻ってすぐに女長にこき使われることに比べればどれだけ時間がかかろうともマシだというのがシャラの捻くれたところかもしれない。 そんなわけで、シャラはアドゥディーパ国内の道をてくてくとのんびり歩いていた。 太陽が山の端に沈み、空が夕闇に覆われ始める。確かもう数キロ先に村があったはずだとシャラは脳裏で地図を思い浮かべた。別段野宿でも構わないのだが、宿に泊まれるに越したことはない。日が完全に落ちきる前には村へたどり着こうと、少々足を速めようとしたシャラであったが。 ふと、道端にうずくまっている人影が視界に入ってきた。緑色のマントを被っていてよくはわからないが、どうやら若い女のようだった。 「気分でも悪いのですか?」 と、普通なら声をかけるのだろうが、シャラは平然と無視して彼女の傍らを通り過ぎた。何の関係のない他人であるし、助ける義務も何もない、のたれ死ぬのなら勝手にのたれ死ね、そう思っているのが何ともシャラらしいかもしれない。 ところが。 「もし……そこのお方……」 明らかにシャラにかけられた呼び止めの声に、彼は不承不承立ち止まった。 しかし、立ち止まっただけである。屈みこんで様子を見る、なんてことはせずにただ見下ろしているだけであったのだが。 「水がなくなってしまったので、もしよろしければ水を恵んでくださりませぬか?」 よろしくなければ水をやらなくてもいいのか、と思わず悪態をつきたくなったが、シャラは言葉を飲み込んだ。確かにそうやって下手に頼めば嫌といえる人間はいないだろうが、面と向かって拒否されたらどうするんだ?と内心で思う。 大体、旅の途中の様相をしているのだが、そういう時は水が少なくなってきた時に補給しておくものだろう。当たり前のことを怠ったのだから干からびてのたれ死んでも自業自得だとしかシャラには思えなかったのだが。 本当に、しぶしぶと、シャラは水筒を無造作に差し出した。 とはいっても、それは女を哀れんだからでもなんでもない。ここで拒否して下手に恨み言を言われてうざったくなるよりも、さっさと用件を済まして縁を切った方が面倒がなくていい、そう判断しての行為だった。決して、親切からではない。 水を数口飲み終えた女が、水筒をシャラに戻しながらにっこりと笑いかけた。 「ありがとうございました」 天上の奏でる音楽のような、甘美さを含んだ美しい声に、シャラは初めて女の顔を見た。 宝石のように輝くばかりの美貌がそこにはあった。 美しい、そうとしか形容のしようがない。世界のどこにいようとも、名を馳せて不思議のない美女であった。 彼女がスッと立ち上がった。 群青色の長く艶やかな髪は足元につくかと思われるほど長い。真紅に塗られた口唇は小気味よい笑みを形作っている。そしてその瞳は、男女の区別なく、世界中の人間が魅入られるような黄金色の輝きを放っていた。 その肢体は、たっぷりと熟れた果実を連想させた。豊かで、すべやかで、引き締まっており、ぞくりと怖気が走るほどの女の蠱惑に満ちていた。 しかし、シャラは全く興味がない様子で、あっさりと女に背を向けた。 もう、この女に関わる義理も必要はないのだと、さっさと歩き去ろうとするシャラの後ろを、しかし何故か女はついて歩き出した。 「あなたは私の命の恩人です。何かお礼を……」 「いらん」 キッパリと拒否する。 しかしなお、女はシャラの後に続く足を止めなかった。 「私、これから息子を迎えに行くところなのです。道中ご一緒してもよろしいでしょうか?」 「行く方向が同じなら勝手にすれば」 全く取り付く島もないシャラの態度だ。 それにしても、女は子供がいるとは到底思えぬほど若々しかった。どう見ても二十代後半ぐらいにしか見えない。 無愛想なシャラに、それでも女は語りかけてくる。 「私、息子がまだ幼い頃にとある事情で生き別れてしまいましたの。その後中々居所が掴めなくて……ようやく、あの子の居場所がわかりました。でもあの子、父親に似て頑固ですから自分からは戻ってこないと思いましたので、わたしが迎えに行くことにしたんです。これから母子でずっと一緒に暮らせると思いますわ」 「あのなぁ……」 ウンザリしたようにシャラはようやく口を開いた。何が嬉しくて他人の家庭の事情を長々と聞いていなければならないのかと、迷惑そうな様子を隠しもしない。 「俺はあんたにもあんたの家族にも興味はないんだから、どーでもいいことを話しかけんの止めてくんない、おばさん?」 女は呆然となって目を丸くした。彼女はおばさんと呼ばれるにはまだ若すぎた。もしかしたら、生まれて初めてかけられた呼称なのかもしれない。 しかし、女は次のシャラの台詞に、双眸を鋭く煌めかせた。 「俺に何か用があるんならさっさと言ってくんねーかな。そーでなかったらさっさと消えろよ。俺は人間以外のモノに後をくっつかれるのはやなんだよ」 人間以外の、モノ。 「……私が……何ですと?」 「いい加減済ました顔はやめたら?化け物のくせに」 女は俯いて肩を震わせた。 すすり泣いているようにも見えたが違った。――――――咽喉の奥で、笑っていたのだ。 その笑いはやがて確かな声になり、そして哄笑へと変わった。 「ホホホッ、いつわらわが妖魔だと気づいた?妖気は消しておいたはずじゃが?」 女の口調そのものががらりと豹変した。 「気配は消そうが、お前らが人間を見る目までは変えられるかよ。軽蔑し、見下した目ですぐにわかんだよ」 「ほう……さすがは塔にその人有りと言われるシャラシャーイン。見事じゃ」 「誉められても嬉しくもなんともねーが……やっぱり俺が目当てだったみたいだな。何の用だ?」 しかし、それには答えずに女妖魔はふむと首を傾げた。 「そなた、可愛い顔に似合わず少々柄が悪いの」 「大きなお世話だ、くそババア」 確かに、妖魔の寿命は人間とは異なり、総じて何百年と生きている者が多い。まだ19年しか生きていないシャラから見ればずっと年上かもしれない。それは確かなのだが……この気位の高さから予想されるに長き年月を生きてきた上級妖魔らしき相手に面と向かって『くそババア』呼ばわりしたのは、アーシュムーシュの長い歴史を紐解いてもシャラ以外にはいないに違いない。 上級妖魔の誇り高さは、相手に自分の名を呼ばせるのも許さない。この場合は八つ裂きにされてもおかしくはない状況であるのだが。 しかし、何故かこの女妖魔は気を悪くした様子を見せず、むしろ心底楽しそうに金の鈴のような笑い声を零した。 「久方ぶりに聞く悪態は新鮮よの、耳に心地よいぞ。そなたの見目も愛らしくて気に入ったぞ。したが、わらわにそのような口の聞き方をしたものは今まで一人として生き残ってはおらぬのじゃがな」 「じゃあ、俺がその最初の一人になってやるよ」 シャラの言葉が終わった瞬間、二人の間で空気が弾けた。力と力がぶつかり合った結果だ。 右腕がビリッと痺れて、シャラは内心舌を巻いた。 凄まじい力の持ち主だった。今まで相手にしてきた妖魔より桁違いに強かった。 女妖魔の方も、感心したように吐息を零した。 「ほう……噂通り、そこらの術師とは違うのう。ますます気に入ったぞ」 「気に入ってくれたのは結構だが、まださっきの質問に答えてねーぞ。一体何が目的だよ?」 「我が子を迎えに行くと申したであろうが」 「それと俺が、どんな関係があるってんだ!」 「あるとも、大いにな。その為にそなたが必要なのじゃ」 再び、力がぶつかり合う。 じりと押されて、シャラの額に汗が滲んだ。 (……強い!なのに、こいつ……これでもまだ本気を出していないのか!?) 薄笑いを浮かべている女は全力を出し切っていない。遊んでいるだけであることが、否がおうにもシャラに伝わってきた。力の差は歴然だった。 「人の身にしては力の強い持ち主じゃな。気に入ったぞ。そなたとめぐり合わせてくれた……に感謝せずばなるまいな」 名前はよく聞き取れなかったが、女妖魔は本当に嬉しそうに笑った。 「そなたに、我が名を口にする栄誉を与えようぞ。感謝するがよい」 シャラはギョッとした。こんなに力の強い、それ故に気位の高い妖魔が自らの名を教えようとし、なおかつその名を口にする自由を与えようとは。 「我が名は――――――プラティシュターナ」 女は傲然と告げた。 シャラは、今度こそ愕然として言葉を失った。 彼は、その名を知っていた。人が、最も恐れる存在の一つである、その名を。 「……まさか……お前は……」 信じられぬ思いで呟くシャラの目の前で、女妖魔――――――プラティシュターナは真紅の唇を歪めて妖しく笑った。 |
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