落日の彼方







第12章












 元暦二年(1185年)三月二十四日、壇ノ浦において平家は滅ぶ。

 これにより、源平の争いに終止符が打たれることになり、以後、源頼朝は同族同士の争いに明け暮れることとなる。













 小次郎は、武蔵の館裏の山道を、一人ぶらぶらと歩いていた。目的があるわけでもなく、何をしたいというわけでもないのだが、何となく、一人になりたかった。この山の中に分け入るのも久しぶりのことである。一時期は、全くここに寄り付かなかった。苦い思い出の為に無意識に避けていたのかもしれない。

 それなのに、何故今になって来る気になったのか?

 それは小次郎自身にもわからなかった。

(時が経つにつれ、人の思いも風化してしまうからだろうか……?)

 そう考えて自問する。はたして、自分の思いは風化してしまったのだろうか?
 よくわからない、としか答えようがない。この1、2年はあまりに慌ただしすぎて、感慨にふける余裕もなかった。源平の争いの終わった今、ようやく心にゆとりが出来たのだから。

 苦い思い出、といっても、この地にそれがあるわけではなかった。ここでの過去に暗いものなどない。ただ、ここには必ず付随する記憶がある。それが、小次郎に苦い思いを味合わせるのだ。

(三郎……)

 父から彼が亡くなったと聞かされたが、小次郎に実感はなかった。義経の元に敦盛の首が届けられたそうだが、小次郎はそれを見ていない。望めば見ることは出来ただろうが、それを見ることは敦盛の死を認めてしまうことだと恐れ、出来なかったのだ。

 それは、彼の死を認めたくないと、思っているからなのか?

(憎んでいるんじゃなかったのか?この手で彼を討とうと本気で思っていたんだから。それなのに……俺は、三郎が死んだと思いたくないのか?)

 己の心の動きがわからず煩悶する。
 そんな小次郎の視界に、淡紅色の色彩が飛び込んできた。

「何だ?」

 そこは木々が開け、草原となっていた。その緑の中に、ポツリポツリと淡紅色の花が見えている。よく見ると変わった形の花だ。花弁は4枚あるのだが、3枚は先端が尖った普通の形で三方を向いている。しかし、手前にある最後の1枚が袋状になっていて、上に向かって口を開いているのだ。

「“延命小袋(えんめいこぶくろ)”じゃないか。こんな所に生えていたのか」

 山地や草原に咲く花で、決して珍しいわけではないが、何故か同じ地に何年も生えることはないという、不思議な花であった。
 こうしてじっくりと眺めてみると、丸みを帯びた独特の花弁が母衣(ほろ)に見える。母衣とは、武者が矢を防ぐ為に背負った袋状の布のことだ。

 まっすぐに伸びた茎の先に、一つの花しかつけない。
 ――――――優しげでありながら、凛とした美しさをもつその姿に、小次郎は最後に見た敦盛の姿を重ねて思い浮かべた。

 小次郎の懐には、敦盛から託された『青葉』がある。彼が何故、最期の時にこれを自分へ渡そうとしたのか、手渡された父もその理由を聞いていないという。

(これが、お前の心なのか……)

 敦盛の全てに疑心暗鬼になった自分の元へと託された横笛。これが由緒ある名笛だとは聞かされていたが、あの時の自分にはそれはどうでもよいことであった。ただ、敦盛の美しい笛の音があれば、それだけで充分だったのだ。

(あの音色に嘘はないと、伝えたかったのか?お前は俺以上に苦しんでいたというのか?)

 素性を隠していたことは、あの状況では当然だと小次郎も思った。それを彼にとっては都合のよいことだと解釈していたが、そうではなかったとしたら?
 あの優しい笑顔も楽しかった思い出も本当のことで、逆にそのことで敦盛が辛く思っていたのだとしたら?

 騙された、と思っていた。
 裏切られたのだと、憎く思ったのに。





「……裏切ったのは、俺の方じゃないか……」





 敵として目の前に立った敦盛を見て、小次郎は即座に裏切りを信じた。懐かしい過去よりも、目の前の姿を信じた。――――――それはすなわち、敦盛本人を信じていなかった、ということなのだ。

 彼を、責めることなんて出来ない……。

 小次郎は苦しげに眉をひそめる。額を抑えて低く呻いた。

「三郎……」

 ポタリと、雫が頬を滴り落ちる。泣いているのだと気づいたのはしばらく経ってからだった。





 敦盛が死んでから、初めて流した涙だ。





 鋭い刃物でえぐられているかのように胸が痛い。もう二度と彼に会えないのだと思うと、こんなにも心が苦しい。

 憎むことなんて出来なかった。彼の死がこんなにも悲しいのに、もはや己の心を偽ることは出来なかった。生きていて欲しかった。例え敵同士で、もう二度と会うことが出来なくても、生きていてくれるだけでよかったのに。





 ――――――もう、この世に彼はいないのだ。





 嘆く小次郎は日暮れに気づいたのは、延命小袋が茜色に染まった頃だ。自分自身も赤く染まっているのだろうと、頬を濡らしながら空を仰ぐ。

 稜線に沈む夕日は見えなくても、夕焼けの素晴らしさは伝わってきた。





『決してあの夕焼けを忘れない、本当に綺麗だった、と……敦盛殿が仰られていた』





 直実が笛を渡しながら伝えてきた敦盛の最期の言葉。
 彼の、心情を吐露した最期の……。





 夕日の向こうに、敦盛の笑顔が浮かぶ。

「ああ……本当に、綺麗だな……三郎……」

 小次郎は、敦盛へと笑いかけた。














 延命小袋。
 ラン科シプリペディウム属の多年草で、本州中部以北に分布している野生ランである。

 古人はその丸みを帯びた独特の唇弁を母衣に見立て、源平合戦の哀話を重ねた。優しげでありながら儚さをも感じさせるその姿に、人は若くして散った敦盛への哀悼を託したのだろう。





 ――――――現在、その花は“敦盛草”と呼ばれている。











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