落日の彼方







第9章
















 何が彼を急速に成長させたのだろうか?

 あの除目の件以来、ずっと経正が抱いている疑問であるが、いまだその答えは得られていない。

 彼の本質が変わってしまったわけではないのだ。今まで現れなかった彼の才能が具現したと思っている。だから、敢えて成長と呼んだのだが。

 経正はそれを父のように素直に喜べない。小さな子供が段々と大きくなっていく、そんな普遍的な成長とは違うからだ。
 確かに、元々彼の持っているものが発現したわけだから、やがてそうなるであろうことは予想できたことだ。

 しかし、急すぎる。

 経正には、敦盛が急いているとしか思えない。

(弟は、自らが変化することを望み、自身に強いたのではないか?)

 何故そんなにも急ぐのかがわからない。
 敦盛は焦っている。まるで、残された時間があと僅かであるかのように。

(残された時間があと僅か?)

 自分の考えにぎくりとする経正。
 不吉な響きを持つその言葉は、しかし今の時勢では否定するのも難しい。源氏と平家の戦でもはや多くの命が失われている。それが明日の我が身であると、どうして言えまいか。現に、敦盛は昨夜三草山で実際に戦った。幸いにも親族の者は無事であったが、下手をしたら討たれていたかもしれないのだ。

 焦る気持ちは、わからないでもないのだ。

 ただ、一つ経正には引っかかっていることがある。
 あの除目の件で、敦盛が知盛に向かって言った科白。

『今のままでは、平家の敦盛であると名乗ることも出来ない』

 名乗ることを、誰に対して行ないたいのか?

 もちろん、彼の言葉だけでは世間一般に対してだと受け取ることも出来る。
 しかし経正には、特定の個人に向けての意味だと、感じていた。

 以前に彼が独白した『彼』という存在。
 それが鍵を握っているのではないか。

 かといって、それを正面切って敦盛に尋ねるのは躊躇われ、答えを聞けないまま今に至ってしまったのだった。
 結局は、それらのことは敦盛個人の問題でしかない。そこまで立ち入るのは兄の領域ではないと思う。

 ただ、願う。
 敦盛が幸せになるように。

 苦痛が彼を苛むことが無いように、と。





 経正の視線の先の敦盛は、知盛と何事かを論じていた。おそらく一ノ谷へと攻めてくる源氏への対応についてだろう。先の一件以来、知盛は敦盛を頼りとすることが多くなった。
 平家の都落ちの際にも何とか食い止めようと奔走したことも、知盛の信頼を深くしていた。
 京に対する敦盛の思い入れは強く、都落ちが逃れられない運命だと悟った時の彼の嘆きは皆の心を打った。
 その姿を覚えているからこそ、敦盛が奮戦すると士気も盛り上がった。知盛がそれも狙っているのは間違いないだろうが、敦盛が兵を鼓舞することで平家軍が保たれているのも確かであった。

 彼の影響力には頭が下がる思いである。仮に経正が同じことをしても、皆が勇気付けられるとは思えない。経盛が敦盛を誉めたのはあながち間違いではないと思う。

 その時も、彼は知盛に頼まれていた。

「笛……ですか?」
「ああ。その笛が鳥羽院からの由緒ある品である事は皆も承知している。昨夜の三草山の敗戦で精神的な衝撃も大きい。そなたの笛の音で、皆の心を鎮めてほしいのだ」

 自分のつたない笛が皆の為になるのなら、と敦盛は承知し、懐より『青葉』を取り出す。

 『青葉』を彼が吹くのは実に久し振りのことであった。経正も以前にはよく聴かせてもらっていたが、最近はずっとその音を聴いていない。やはり、彼が坂東から戻った頃からだと、経雅は思う。最も、このところの状況ではゆっくりと笛の音を愛でる余裕などなかったのだが。

 敦盛はしばし瞑目し、息を『青葉』に吹き込む。

 高く澄んだ音が敦盛の手にする横笛から流れ出した。空気を裂いて響く音色に、皆が耳を澄ました。

 それは不思議な感覚だった。

 申し合わせたわけではないのに、誰もが口を閉ざして笛の音に聞き惚れた。それだけが、空間を支配している。言葉はすでに不要のものとなり、その音色を乱すことが大罪であるとさえ思えた。

 まるで、厳かな儀式のように。
 誰もが神の子を聞く巫覡のように。





 そして、その音色は源氏の陣営にも届いた。
 彼らも同じく聞き惚れた。その澄んだ音が悲哀を感じさせて胸を震わせていた。

 しかし。

 その笛を奏でているのが誰なのか、唯一わかるはずの小次郎は。
 傷のために意識を失い、高熱にうなされて。

 ……『青葉』の音色は、彼の耳に届くことは、決してなかった――――――











 福原京。
 かつて清盛が都を築いた地である。
 一ノ谷城はこの福原京の西にあった。その周囲を峻険な山並みに囲まれ、南は瀬戸内海に面する砦である。

 寿永三年(1184)二月七日午前七時、矢合わせの時と共に、先端がきって落とされた。

 東の生田口の平知盛軍は五万。
 その真正面に陣を引いた大手軍大将源範頼率いる源氏軍も五万。戦力は五分であった。

 そして、搦手軍大将義経率いる七千の源氏軍が――――――実際は、義経は三千の兵を率いて別ルートを進んでおり、ここでは義経から兵を託された土肥実平が指揮を執っていたが――――――三草山より南下し、一ノ谷の西側の木戸口より攻め始めた。

 義経は、さらに兵を分けて、熊谷直実の三千騎を北の山の手より攻めさせ、自身は七十騎を率いて、一ノ谷城を眼下に見下ろす山頂に赴いた。

 時刻は午前八時過ぎ。
 義経は城の背後にある絶壁から馬を駆け下りさせ、奇襲を敢行した。

 『平家物語』に言う、義経の逆落とし(坂落)である。

 思慮の外の攻撃に平氏は総崩れとなった。
 この時、一ノ谷の合戦の勝敗は決したのである。




 熊谷直実は山の手より一ノ谷城を攻めるはずであった。

 しかし、それでは誰が一番乗りか判明しにくい。武勲に相当する報酬をもらうのだから、当然手柄を立てたいと思う。その為には、先陣を切って一番乗りをするのが手っ取り早い。
 そう考えた直実は、六日の夜半の内に軍より抜け出し、土肥実平の軍勢を浜辺伝いにすり抜けて、平家軍の西の木戸口へと向かった。
 同じような考えで山の手より抜け出してきた平山季重との先陣争いは、『平家物語』にも有名である。

 戦闘が開始され、直実は狙い通り、名のある武将達の首を討った。

 しかし、残念なことに彼の傍らには息子の姿はなかった。小次郎直家は、過日受けた傷が元で臥せっていた。本来ならば、父子で名乗りを上げて功を挙げるつもりであったのだが。

 三草山で父と共に参戦した小次郎は、その時敵の刃を受けて右肩に傷を負った。相手にさほどの腕力がなかった為か幸いにも傷は浅く、命に別状は無かった。
 ただ、その傷が元で熱を発して床に就いてしまった。それでは合戦は無理であると、直実は付近の民家を借りて息子を休ませたのであった。

 返す返すも残念である。小次郎ならば、父に劣らぬ武功を立てたであろうに。

(それを言うならば、三草山で敵の一太刀受けたこと自体が不覚ではあるのだがな)

 それについては、小次郎はただ一言、

「申し訳ありません」

 と謝るばかりで、詳しいことを言及しようとはしなかった。

 腑に落ちぬものを感じたが、小次郎の塞ぎこむ様子を見て、己の未熟を恥じているのだろうと思った。

「まあ、まだ若いのだ。これもよい経験になっただろう」

 小次郎の気落ちの真の理由を知らぬ直実は、そう言って息子を慰める。
 そして、小次郎の為に名のある平家の大将の首をとろうと約束したのだ。

 義経の奇襲後、総崩れとなった平家軍は先を争って海上へと逃れていく。馬を操り、海に漂う味方の船へと波間を進む騎馬姿が、あちこちで見られた。
 それでもなお功をあげようと、源氏の武者が追っていく。

 直実も例外ではなく、

「敵に後ろを見せなさるな!引き返されい!」

 扇をかざしながら、ある騎馬姿の平家の公達に声をかけた。鎧・直垂や彼の騎乗している馬の良さから、平の姓を持つ者だと推し量れた。

「私は武蔵国の住人、熊谷次郎直実。引き返し勝負されい!」

 その名乗りを聴いた途端、武者が手綱を引いて取って返してきた。
 兜を被っている為顔が良く見えないが、自分の何反応したのならば自分を見知った者なのだろうか。思いながらも、太刀を抜いて敵に切りかかった。

 何度か刃を交わす。太刀筋は良いが、如何せん経験不足だ。きっと、まだ若者なのだろう。あと数年もすれば、さぞや名の知れた武将になるだろうに。

 明らかに直実の方が腕が立つ。予想できた通り、やがては相手が押され出し、ついに直実の切っ先が鎧の合わせ目から腹部に突き刺さった。

 若武者は馬からどうっと落ちた。

 直実は急いで下馬し、相手が態勢を整える前に首を掻こうと伸し掛かった。
 仰向けになった若武者の兜を押し上げ、刀を振り上げた直実は。

 ――――――相手のあまりの若さに、声をなくした。

(何と、幼い……しかし、何と美しい少年なのだろうか)

 年の頃は十六・七か、多分息子の小次郎と同い年くらいであろう。若いとは思っていたが、これ程までとは思わなかった。

 少年には、もはや諦めているのか、抗う気配はなかった。ただ真っ直ぐに、馬乗りになった直実を見上げている。

 ただ見られているだけなのに――――――その視線は鋭いわけでもなく、威圧を感じさせるわけでもないのに――――――直実は身動きが取れなかった。





 そんな直実を、敦盛は静かに、本当に静かな眼差しで見つめていた。


















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