第8章 |
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三草山の合戦は大混乱の内に、平家の大敗となった。 元々不意を討たれた夜襲であり、数からして不利なものであった。混戦の中で大将・副大将が無事に逃げ延びたのが奇跡的でさえある。 無残にも敗れた平家の残兵は、その一部は一ノ谷の本陣へと逃れて行き、ほかは平資盛・有盛・忠房と共に船で讃岐の屋島へと渡った。それが、彼らの命をほんの一年ではあるが永らえさせることになるとは、彼ら自身でさえ思いもしなかったに違いない。源氏の厳しい追撃の中で、兄弟とはぐれながらも一ノ谷へと辿り着いた師盛は、この数日後の合戦で命を落としてしまうのであった。 敦盛がこの戦闘に居合わせたのは、偶然であった。 元々彼は父の経盛と共に一ノ谷城につめていた。三草山に行ったのは、迫り来る源氏軍との合戦の戦術について、そこに布陣する資盛ら平家軍への伝令役を請け負ったからだ。 二月四日は、故相国入道・平清盛の命日である。平家では、戦乱の最中ではあるが故人に対する礼を重んじて仏事を盛大に行っていた。 まさか、いくら源氏であろうとこの日に襲ってくることはあるまいと、高を括っていたのも事実である。そして、陰陽道による占事によって、矢合わせは二月七日であると予想した。 その為の伝令であったのだが、敦盛が三草山の平家の陣に辿り着くと、そこはすでに惨劇の場になっていたのだ。 陣容は崩れ去ってしまって立て直しさえ不可能であると悟ると、大将資盛らと連携をとって軍を退かせる為に奔走した。 それでも源氏の追撃は激しく、二手に分かれてしまったが、敦盛は何とか師盛と一ノ谷まで落ちることが出来たのだった。 「ご苦労だったな、敦盛」 父の経盛に労いの言葉をかけられ、敦盛は疲れたように笑う。 「いえ……」 「繰言を言っても詮無いことだが、お前が初めから三草山にいれば、こうまで大敗を喫することはなかったかも知れんな」 「私のような未熟者がいたところでどれほどのことも出来ますまい。今回のことは、運が良かったのですよ」 謙虚に言う敦盛は本当に相思っていたのだが、経盛は謙遜としか取らなかった。 実際、敦盛の成長ぶりに父親である彼が一番舌を巻いたのだ。 そんな敦盛を、経正は複雑な思いで見つめていた。 「一体、どうしてしまったのだ?敦盛は……」 これは、まだ平家が都落ちする前の経盛の台詞である。父に問いかけられて、敦盛の兄である経正は首を傾げるしかなかった。 「私に、どうしたと問われても……」 困る、と経正は思う。どうしてなんて、自分の方が聞きたいくらいなのに。 敦盛は変わった。 目に見えて、成長した。――――――成長と、言っていいのかどうか、今でも悩むところだが……。 見違えるほどに大人びて見えるようになった。もちろん、それは彼の内面のことであって、外見は以前とは全く変わりがないのに。 以前の、彼ではない。 最初に気づいたのは経正であった。 しかし、気づくとはいっても、その時はただ彼の笑顔があまり見られなくなった、という程度の些細なものであったのだが。 いつからかと問われれば、経正には答えることが出来た。経正が越前から戻ってきた頃――――――敦盛が、坂東から戻ってきた頃だ。 そういえば、時計雅は思う。あの時から彼の様子がおかしかった。坂東でのことは決して口にしようとはせず、ただひたすらに自分を責め続けていた。 そして、平家の犠牲となった子供。 あの子が投げつけた言葉が、敦盛の心を傷つけたのは間違いなかった。 『我々は、こんなにも憎まれていたのですね……』 あの時の呟きが忘れられない。絶望に押し潰されたような声だった。 弟が、平家であることを厭うようになるのではないか、と心配したが。 経正の懸念を払いのけるように、敦盛は一層平家の為に尽くすようになった。 以前からも、自分が役に立てることを求めていた。自分なりに出来ることを精一杯しようとしていた。幼いながらもそんな涙ぐましい努力を好ましく思っていたのだが。 今の彼は、違う。 何と表現すれば良いのか経正には迷うところだが、今までの彼は平家の進む道を少しでも手助けしようとしていた。 しかし、今の敦盛は手助けするのではなく、平家の進むべき道そのものを変えようとしている、そんな気がする。 寿永二年(1183)の正月の出来事が、経正には忘れられない。 あの時、彼は敦盛の変化を確信した。 『除目』という行事がある。 大臣以外の諸官職を任命するものだが、京及び宮中の官吏を任ずる秋の『司召しの除目』と、地方官を任ずる春の『県召しの除目』と分かれている。最も、平家の専横が常となった当時では、時期を問わない臨時の『除目』が横行していた。 また、宮中では五位以上の位階を天皇自らが授ける『叙位』という儀式が、陰暦正月五日又は六日に行われる。 寿永二年の正月五日、敦盛にとっては従兄弟のこに当たる平清宗が、叙位で正三位の位を授かった。 実はこれが大いに問題となった。というのも、清宗は当時十三歳の若輩であったからである。 彼はすでに従五位下、備前介の官位・官職を受けていた。それ位は平家の一族ならば当然とされていた頃ではある。しかし、たった十三歳の少年が従五位から一気に正三位へと昇進することなど前代未聞のことであった。 その背景には、彼の父の存在がある。 清宗の父は、この話ではすでに何度もその名が登場した平家の棟梁・内大臣宗盛であった。 一位から初位まで三十段階に分かれている位階の、正三位とは上から五番目である。たった十三歳の子供が正三位を授かったのが彼の父親の意向の為だというのは、誰が見ても分かってしまうことであった。 しかし、相手は平家の棟梁。不満があろうとも表立って異議を唱えることが出来ない。周囲の非難を感じてはいたが、棟梁の命令ということで宗盛は強引に行事を進めさせた。 そして、清宗の叙位が済んだ後、さらに宗盛は一同の前で言ったのだ。 「官位相当という言葉があるように、官職にはそれに相応しい位階の者が就くのが原則である。晴れて清宗も正三位となったからには、やはりそれなりの職に就くべきだと思う。よって、近々除目を行ない、清宗に大納言の職を与えようと思う」 さすがに皆顔色を無くした。 大納言とは、左・右大臣に次ぐ地位で、天皇に近侍して諸政を議し、天皇への奏上や天皇の宣下を司っている。いわゆる朝廷の要とも言うべき地位であった。 しかし、平家の中で宗盛の次に権力を持つ知盛(宗盛の弟)でさえ、その下の中納言の地位であった。それを、棟梁の嫡子というだけで大納言に就くなどとても常識では考えられなかった。 だが、誰も言葉を発しない。 弟の知盛でさえ、宗盛に向かって異論を唱えるのは躊躇われた。 元々の気質もあるのだが、最近の宗盛は他人の意見を聞くということが全く無くなってしまった。 平家の棟梁という地位に目が眩まされてしまっているのだ。自分が一番……そう、現在この国の中で一番偉いのは自分だと、疑いもなく信じている。自分の命令は絶対で、叶えられないことはないのだと彼は本気で思っていた。 『与えようと思う』と言いながら、すでに心の中では決定している宗盛である。誰も、それを止めることなど出来ないと、諦めかけていた。 諦めかけていた……その中で、ただ一人声を上げた者がいた。 「その儀、しばしお待ちください。大臣殿」 誰もが虚を疲れた。 まさか、彼が宗盛を止めようとするなど思いもしなかったのだから。 それでも。 敦盛は唇を噛み締めて、宗盛をひたすらに見据えながら口を開いた。 「清宗殿の除目の件、今一度ご再考されていただきたく思います」 「なんだと?」 宗盛にしてみれば、殿上を許されているとはいえたかが五位でしかない無官の敦盛が意見するとは考えてもいなかった。だから、怒るよりもとっさに呆れてしまったのだ。 「一体何を言い出すのやら。敦盛、儂は子供の戯言に付き合っているほど暇ではないのだぞ」 「棟梁は今私を子供と仰られた。それは間違いではありません。ならば、同じく子供である清宗殿を公卿(位階では三位以上、官職では参議以上の人々を指す)とされること、間違っているとは思われませんか?」 「何!?」 宗盛の眉が釣りあがる。自分の決定を否定されたのだ。相手が子供であるとわかっていても、彼の怒気は抑えられなかったようだ。 同時に周囲がどよめいた。誰もが言いたくても言えずに終わろうとしていたのに、まだほんの少年である敦盛が真正面から宗盛を非難したのだ。何と言う勇気の持ち主であろうと、逆に感心してしまう。 最も、感心される為の行動ではない敦盛自身にとっては、文字通り命懸けの諫言であった。 「敦盛!儂に逆らうと言うのか!?」 「間違っていることに従うことは出来ません」 「貴様……!」 激昂して宗盛は立ち上がった。扇を持つ手が怒りの為に震えている。 自分より一回り以上年下の、位もはるかに及ばない格下の者が、まるで対等であるかのように暴言を吐く。それは宗盛にとって許されることではなかった。 「誰に向かってものを言っている!!」 宗盛は、握り締めた扇を力を込めて思い切り敦盛に投げつけた。 扇は彼の額にぶつかり床に落ちた。角で傷をつけたのか、敦盛の白い額を赤い血が一筋滴り落ちる。 息を呑んで見つめていた経正の脳裏に、同じように弟が傷ついた時のことが突然に蘇った。 あの時は、石を投げつけられた。傷は、同じ場所についたのではないか? だが……弟の反応が全く違う。あの時は、愕然として顔色が蒼白になっていた。明らかに衝撃を受けていたのに。 今は、毅然として宗盛を見上げている。扇が投げつけられた時も視線を逸らさなかった。強い意志でもって瞬きすらしない。ほんの二〜三ヶ月前のことであるのに、この違いは何だろう。 「ご再考を、棟梁!」 最高権力者の怒りを真正面から受け止めて、しかし敦盛は退こうとはしなかった。逆に、瞳に込める力を強くする。 さすがの宗盛も、その気迫に飲まれたかのように咽喉を鳴らした。 そして、彼は無言のままに身を翻すと、足を踏み鳴らして出て行った。 ほうっと皆が息を吐く。手の平に汗が滲んで、緊張していたのだと今更感じた。 「敦盛……」 誰が呟いたのか、名を呼ばれても敦盛は動こうとはしなかった。じっと、宗盛が出て行った方を見つめている。 一体どうしてしまったのかと、問いたい経正であったが、それを許さぬ雰囲気があった。敦盛はまだ険しい表情を解かない。まるで別人のような弟に、何と声をかけてよいかわからなかった。 しかし、真っ先に動いたのは知盛であった。 彼は懐から布を取り出すと、敦盛に歩み寄りそっと血を拭ってやった。 「大丈夫か……?」 「……はい。見苦しい様をお見せしまして申し訳ありません。私のような若輩者が己の立場も顧みず、不忠なことを……」 「いや……よく言ってくれた。面前であのように苦言を呈されれば、いかに棟梁と言えど先の提案を強行することなど出来まい。息子を思う親心は私も人の子の親だから分からないでもないが、あれは行き過ぎだ。あんなことがまかり通ってしまえば、世間の非難を一身に浴びてしまう」 苦いものを飲み込むように言う。 ただでさえ平家から離れていく輩が多い時にあのような非常識を許してしまえば、余計に反発されることはわかりきっていた。敦盛のような子供でさえわかることを、何故宗盛は気づくことが出来ないのか。 棟梁のことを思うと、知盛の表情は暗くなる。血の繋がった肉親だからこそ、歯痒くなるのだ。 暗い眼差しをやや和らげて、知盛は敦盛を見下ろした。 「何故と、問うても良いか?」 あの言動の理由だと、目的語がなくても知れる。経正が訊ねたくても出来なかったことだ。知盛も、敦盛の態度を怪訝に思っていたのだ。 以前の彼なら、衆目の前であのようなことを言い出すことなど出来なかったはずである。だかららこそ、彼らは違和感を禁じえなかった。 問われた敦盛は、すぐには答えなかった。 言い渋るというより、自分の考えを頭の中でゆっくりと整理している、そんな様子であった。 「……以前の私は臆病者でした。我が身が可愛くて、思うことを何一つ口にすることが出来なかった。自分には何の力もないのだからと自分に言い訳をしていた。けれど」 敦盛は真正面から知盛を見た。 強い意志を宿した瞳が知盛を映している。何とまっすぐな視線を向けるようになったのだろうか。惹きつけられるように見惚れてしまった知盛だが、曇りなく澄んでいる瞳は以前とは全く変わっていないとも気づいた。 「それでは駄目なのだと気づいたのです。私は、平家である自分を誇りに思いたい。しかし、今のままでは平家の敦盛だと名乗ることも出来ない。己の存在に自身が持てるようになりたいから、平家を正しく導きたいと思ったのです。……私ごときが導くなどと、おこがましいことだとは思うのですが……」 「……いや、そなたは正しい」 敦盛の生きる姿勢に、知盛は感動した。 いや、知盛だけではない。経正も経盛も、その場にいる一族のもの全てが胸を突かれた。 平家であることに誇りを持ちたい。それは誰もが抱く願いである。 だが、現実に今の自分を誇りに思っている者が、果たして何人いるのだろうか……。 その後、清宗の除目が行なわれ。 彼は、右衛門督という官職を与えられた。――――――これは、諸門を守護し出入りを検す官の長官職で、従四位下に相当する地位であった。 |
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