第5章 A man cannot live without hope.
W 一連の出来事と経緯を聞いて、アーシアは驚いた。 「セフェリスが……?私に……?」 「彼と一体何があったんだ?」 アレクサンドロスの問いに、しかしアーシアの方が困惑し、納得がいかずに首を捻っていた。 「何、というほどの事は……ほんの少し言葉を交わしただけで……」 そう、彼の問いに自分が答えた、ただそれだけ。確かに彼は何かの答えを得ようと必死になっているようだったが、たったあれだけの会話で何故そんなにもアーシアに思い入れることになってしまったのか。彼女には到底理解できなかった。 「……で、どうするんだ?彼を」 アレクサンドロスの声に、セフェリスに対する嫌悪が含まれていないことに気づく。遠征前は、父王との間に溝を作った者だと、何かしらのこだわりを持っているようであったのだが。 しかし、アレクサンドロスがこだわりを捨てても、そうでない者もいるだろう。 例えばフィリッポス二世とか。 「……アレクの立場がまずくなるわよね……」 彼の申し出を受け入れた場合のことだ。 最も、アーシアにはセフェリスをどうするか決めかねていた。彼を受け入れる理由は彼女の方には全くない。アレクサンドロスが否といえば、平然と拒絶するだけのことなのだが。 どうやらアレクサンドロスの方はアーシアの意志に任せるつもりでいるらしかった。 「まあ、俺の立場については今さら、だな。それにそんなことは考慮しなくていいさ。彼の覚悟を思えば些細なことだ。アーシアの思う通りにすればいい」 「……」 親衛隊の中でも意見が分かれているようだった。クレイトスやアステリオンはセフェリスに対して強い警戒を抱いていたので、当然のように反対している。逆にリュコスやヘファイスティオンなどは、あそこまでするのは並々ならぬ決意だと感心しているらしい。 どうしようかと悩むアーシアは、治療を終えたセフェリスにひき会わされた。 ベッドに横たわっている彼の顔色は青白い。右半面に巻かれた包帯の白さが痛々しさを増していた。 しかし、彼の瞳の輝きは力を失ってはいなかった。アーシアは、彼の目に強固な意思と真実が込められているのを感じ取る。 遠巻きに睨めつけている親衛隊の耳には届かぬよう、セフェリスの声は囁きとなって発せられた。 「……アーシア様は僕の両親のことはご存知ですか?」 「――――――知っているわ」 アドニスの神話は有名である。 その昔、パポスの王キニュラスの娘ミュラはアフロディーテの祭礼を怠った為、アフロディーテが罰としてミュラに父への恋心を吹き込んだ。ミュラは実の父を恋い慕い、キニュラスを騙して一夜を共にし、アドニス(セフェリス)を産んだ。キニュラスとミュラは近親相姦の罪の為悲運をたどったが、生まれたばかりのアドニスはその美しさをアフロディーテに愛でられ、彼女によって冥府の女王ペルセポネーに養育されることになった。しかし、ペルセポネーもアドニスの美しさに手放しがたくなり、アフロディーテと争ったという。 「……僕の人生はずっと神々によって押し付けられたものだった。でも、それに抗うことは考え付かなかった。何の力も無い人間が神に逆らえるわけがない、そう自分に言い訳をして……希望もなく、絶望のままに生かされてきました。でも……これは僕が望んだのです。あなたにお仕えしたい、自分自身で生きる道を見つけていきたい、と」 初めて見た時の、彼の内に宿っていた絶望と虚無は、神々に人生を翻弄されたが為だったのだ。 けれど、今のセフェリスには人形のような、という形容は当てはまらなかった。彼の内の虚無は姿を消し、今は希望という光に満ち溢れている。 「……アフロディーテの怒りを買うわよ」 そう、彼の行為はフィリッポス二世だけでなく、アフロディーテに対する裏切りでもあった。彼は神に背くことになるのだ。 「覚悟の上です」 セフェリスには何の迷いも見られなかった。全てを承知しているのだ。 「その為に死ぬことになっても、僕は決して後悔しないでしょう。自分で自分の未来を選択したのですから」 そんなセフェリスに、アーシアは優しい笑みを見せた。 ◆ ◆ ◆ アフロディーテは水瓶から手を離した。すると、水面にさざ波がたち、今まで見ていた映像が消えた。 ここはオリンポス――――――天空にある神々の居城。 アフロディーテが住まう宮殿は全てが美しく整えられていた。明るく差し込む柔らかな光、咲き乱れる花々の香気、そして妙なる調べの音楽が絶えることなく奏でられている。 彼女の背後から水鏡を覗き込んでいた優美の女神カリテスの<光輝>アグライア、<喜悦>エウプロシュネ、<繁栄>タリアの三女神たちは口々に罵り声を上げた。 「許せませんわ、姫様のご寵愛を受ける身でありながら」 「人間風情がこのような裏切りを行うなど!」 「今すぐ制裁するべきですわ!」 しかし、それらを遮ったのはアフロディーテの静かな声であった。 「捨て置きなさい」 「姫様!?」 「何故でございますか!?」 憤激する彼女たちの目にも、アフロディーテが怒りを覚えている様子は見られなかった。それが彼女たちには不思議であった。アフロディーテこそが憤怒を表すものと思っていたからだ。 けれど、アドニスの裏切りを知っても決して彼女は激することは無かった。水鏡を消したアフロディーテは、物思いに沈むような瞳で宙を眺めていた。 「人を愛する心を私が責めることは出来ないわ。それに……」 ――――――偽りの愛を心に吹き込むことは出来ても、真実人を思う心を操ることは出来ない。いくら愛を司る女神であったとしても。 苦い思いがアフロディーテの心に滲む。 アドニスは彼女を愛したのだ。その形がどうであれ。 彼女によって彼の心は揺さぶられ、そして奪われた。アーシアにそのような意図は無かったのであろうが。 不服そうに押し黙る優美の女神たちをアフロディーテは振り返る。 「まだ手駒は残っているわ。利用できそうな者も幾人か見つけたことだし。ゆっくりと搦めとってあげるわ」 そう、ゆっくりと。網を絞るようにじりじりと。追いつめて、追いつめて。 決して、逃さない。 アフロディーテの脳裏に焼きついている白銀の影。琥珀の双眸。 ――――――あなたを、罠に嵌めてあげる。 うっとりと微笑む。ぞくりと全身を走る快感。 なんて甘美な夢。 「……ゼロスとリュッサを呼びなさい」 |
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A man cannot live without hope. =「人は希望無しには生きられない」
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