第一章 I promised to protect him from everything.
T 紀元前4世紀ごろのギリシアは大きく揺れていた。 都市国家(ポリス)の集まりであるギリシアは、前世紀より大国ペルシアと一進一退の争いを繰り返しており、確実にその勢力を削られていた。 ポリス間の均衡も一定ではなく、アテナイやスパルタ、テーバイ、コリントスといった強力なポリスがギリシアの覇権を手に入れようと絶えず勢力争いが行われ、それにペルシアも加わって、ギリシア世界は混沌としていた。 そのような状態が百年ほど続き各国が疲弊した頃、突如としてギリシア世界に新興国がその名を表した。 北方の辺境国、マケドニアである。 紀元前359年、マケドニアにフィリッポス2世が即位する。 そして「ペルシア報復」と「ギリシア統一」を掲げ、マケドニアはギリシア世界へと進出していった。 「どうした?アーシア」 寝台に横たわっている男が、傍らにいる娘の様子に気づき声をかけた。 男は病に臥せっているのか、顔色が悪く頬もこけている。壮年ではあるのだろうが、髪に白いものが多く混じり、余計に年齢よりも年老いて見えた。 アーシアと呼ばれた娘は年は17〜8と言うところか、寝台の側の椅子に腰掛けていた。艶やかな白金の髪は一つに束ねているが、腰掛けているその姿勢では床につくほどの長さだ。 彼女は天井を見上げていた。しかし、よくよく観察すると、天井というよりもそれを透かした遠くの何かを見つめているようにも見られた。 男が声をかけてもしばらくは動かず視線を宙に彷徨わせていた。それでも辛抱強く待った頃、ようやくアーシアが男の方に向き直った。 男を見つめる双眸は深い琥珀色をしていた。透き通るような色白の肌に、口唇が淡紅色に染まって見える。 はっと息を呑むほどに美しく、どこか無機質めいた印象を与えていた。人形のような、という形容が妥当だろうか。そんな美貌の持ち主である。 「不穏な空気をまとう者達が山に入り込んできたわ」 淡々と告げる声。その唇から零れるのに相応しい声である。 ただ、惜しむらくは何の感情も込められていないことであろう。単に事実を告げただけ、という感じだ。 「不穏な空気……」 男は考え込む。 「……王子が狩猟場に赴かれるのは、確か今日だった……な」 「予定に変更がなければ、ね」 男の重い声にも娘の態度は変わらない。事実だけを述べていた。 そんな娘の態度も気にせず、男は眉根を寄せて沈黙した。 彼の中では様々な思惑が練られているのだろう。アーシアはそれをじっと見守っていた。 そして、ようやく彼は娘を見上げた。 「……アーシア、頼みがある……」 馬のいななきと共に、人の身体が地面に投げ出された。 しかし、それを確認することなく、アレクは馬首を巡らせた。確認する間も与えられなかった、と言い換えた方が正しいだろう。次々と白刃が彼を襲ってきており、そんな時間も惜しんだのだ。 「リュコス!何人倒した!?」 すぐ傍らにいる青年に、刃を受ける手は止めずに問い掛ける。 それに答えるように、リュコスと呼ばれた青年は目前の敵を切り伏せた。 「ざっと7人というところだな!」 「ふふん、なら、俺の方が2人多いな!」 「今のところは、だろう!?今の内に勝った気分を味わっておけばいいさ、今だけだがな!」 二人のやり取りには、笑いさえも含まれている。とても剣戟と血飛沫に囲まれているとは思えない会話であった。彼らを取り巻く殺気だった者達も、これには呆れてしまっていた。 しかし、呆れたのは何も敵ばかりではないようだ。 「二人とも、何をふざけたことを言ってるんですか!真面目にやってください!!」 少し離れた場所で、同じく剣を振るっている青年がうんざりしたように叫ぶ。 この場合、彼の方が常識があるだろう。圧倒的多数の敵に取り囲まれている現実をきちんと見つめてほしい、と願うのは無理ないことだ。 そんな彼に、さらに傍らにいるもう一人が諦めの声で呼び止める。 「言うだけ無駄だろう、クレイトス。奴らはこんな状況も、技量を競う手段でしかないのさ」 「アステリオン、しかし……」 「二人とも負けず嫌いだからな。敵を倒すことだけは大真面目にやっているさ。放っておけ」 どうやら、非常識人はアレクとリュコスの二人だけのようだ。味方の誰もがアステリオンの皮肉げな言葉に頷いている。 首都ペラ付近の山中に仲間と狩りにやって来たまでは良かったのだ。 さあ始めよう、という時に、気づけば数十人の人影に囲まれてしまっていた。こちらは十人に満たない人数である。個人の技量の差はともかく、数の上では圧倒的に不利だった。だからこそ、生命の危険を感じて緊張しているというのに。 萎縮しないですむという点では、緊張感がない方が良いのかもしれない。クレイトスは、そうやって無理矢理自分を納得させようとした。 客観的に見てみれば、数からすれば包囲した方が有利であるに決まっているのだが、実際にアレクの仲間で倒れる者はなく、敵の方がその数を少しずつ減らしていった。 動揺したのは数の多い方だった。 自分達の優勢を疑わなかったのだが、相手の強さに徐々に余裕が無くなっていく。それほどにアレク達は一人一人が強かった。 襲撃者達も、数に頼む戦法は変更したらしい。気づけば、アレク達はそれぞれの距離が広まりつつあった。戦力を分断させようという企図だろう。 「アレク!あまり離れるな!!」 相手の思惑に真っ先に気づいたのはアステリオンだった。 しかし、警告は間に合わなかった。アレクと他の者はどんどん離れていってしまった。 アレク自身、まずいかな、と思わないでもなかったが、さりとて連中も巧みに誘導しており、戻ることも叶わなかった。 アレクは、孤立無援の状態となった。 周囲に味方は誰一人としていない。 けれど、彼は諦めることを知らなかった。彼は生粋の戦士だった。戦って活路を開く。これまでもそうだったし、これからもそのつもりだった。 だが、さすがに疲労が襲ってきたのか、切っ先が鈍くなっていた。幾ら腕が立つとはいえ、一人対十数人では無理がある。相手も中々やられてはくれなくなった。 「っ……!」 痛みに目を細める。 見ると、右の二の腕に血が滲んでいた。 剣を持つ利き腕だが、傷は深くないようで動かすことは出来た。気にせずに剣を振るおうとしたアレクだったが。 眩暈が、彼を襲った。 視界が揺れる。グラリと身体が平衡を崩し、倒れまいとして片膝を地面についてしまった。 そこに振り下ろされる刃。とっさに地面を転がって避けたが、それがさらに眩暈を悪化させたようだ。 こめかみの辺りがガンガンと痛み、吐き気まで感じてきた。 (毒か……!) 立場柄、毒には耐性をつけているのだが、毒と言ってもその種類は数多くある。運が悪いことに耐性をつけていない代物だったらしい。 卑怯な、と思わないでもなかったが、そもそも多数で少数を襲うこと自体が卑怯なのだ。手段を選んでいられないということだろう。 (裏にいるのはアテナイかスパルタか……それともトラキアか?) いずれも自国を取り巻く列強である。どの国からも刺客を送られてもおかしくはなかった。 訪ねたところで素直に吐きはしないだろうが……卑劣なやり方に怒りが込み上げる。 だが、どれほど怒りに身を焼こうとも、次に振り下ろされる剣を避けることは出来そうになかった。 こんな所で死ぬわけにはいかない、と剣を杖にして立ち上がろうとするアレク。 そして、剣がアレクの身体に突き刺さろうとした瞬間。 彼らの間に、風が走った。 「何だ……!?」 アレクも、そして襲撃者達までもが驚きの声をあげた。 それほどに、忽然と現れた人影があった。 「女が何故ここに……!?」 あと少しでアレクを切り伏せることが出来た男が、戸惑いながら叫ぶ。 彼の前には、いつの間にか一人の女性が立っていた。 白金の髪がたなびくのをアレクは呆然と見つめた。 彼にも現状の把握が出来なかった。夢か幻ではないか、とさえ思ってしまったのだ。 それほどに予期せぬ出来事であったし、認めがたい現実であった。 「申し訳ないけれど、この場は退いていただくわ。この方を死なせるわけにはいかないの。どうしても、と言うならば、邪魔をさせてもらいます」 しかし、幻が口を聞くわけがない。 目前に立つ女が声を発したことで、ようやく彼は現実へと戻った。 だが、邪魔をする……? それは襲撃者達の攻撃を防ぐということになるが、それにしては女は剣の一つも身に付けてはいなかった。着ている物もキトンという長いチュニックのような外衣だけで、防具のようなものも見当たらない。 そもそも、女が戦いの場に介入することなど、ここでは考えられないことであった。 古代ギリシアにおいては大体において性分離社会だった為、女性は家の中に篭り人前に姿を現すことも滅多になかった。女性は家庭内では大きな力を持っていたが、家の外では全くその権利を認められていないのだ。 ただし、ギリシアの全てがそうであるわけではない。 例えば、スパルタなどは女性が社会の表舞台にしばしば登場し、人前で体育の教練さえ行われていた。 また、アマゾネスという特異な一族も存在してはいた。 しかし、多くは前述したように、女は家で大人しくしているものであるという習慣であり、それはこの国でも同じであった。 だからこそ、襲撃者達の方も白金の娘の言葉が理解できないでいた。邪魔をする、という言葉自体を、彼女が正しく理解しているのかとさえ疑ってしまう。 そんな周囲の思惑を知らぬのか、娘はにこりと微笑んだ。 それは月光と水晶を集めたらこうなるのではないか、と思わせる澄んだ笑みであった。 しかし、男達は違和感を感じていいた。 その違和感の正体を後々じっくりと考えてみれば、ようやく答えに行き着いたはずである。 彼女の優しげな微笑は、普通ならば当然感じられるはずの温もり……体温というものがなかった。 けれど、男達にそんな時間は与えられなかった。女がアレクの剣に手を差し出したからだ。 「しばらく貸してくださいね」 謙虚に要請してはいるものの、その返事も聞かずに彼女は剣を握った。 そして男達に向かって構える。女性にしてみれば重いはずの剣を軽々と操り、なおかつその様は剣を扱いなれた者のそれだった。 ようやく、娘が本気なのだと察し、男達の表情が変わる。 「女だからとはいえ、我々の邪魔をするのならば容赦はせん!」 襲撃者達は、娘とアレクを取り囲むように輪になった。娘の手助けで、万が一にも逃げられでもしたら元も子もない。この千載一隅のチャンスを逃す気はなかった。 逃げ道を塞がれた形となったが、娘の笑みに変わりはなかった。焦りも緊張も何も感じられない。ただ、自然にそこに立っているだけに見えた。 そして、溜め息を一つ。 「……仕方がないわね」 言い終えた頃には、彼女の身体は動いていた。 男達にはその動きが見えなかった。ただ、娘の姿が突然消えてしまったとしか思えなかった。 数人の男達から悲鳴が上がる。 気がつけば、娘の足元に男が数人倒れていた。それが先に悲鳴をあげた者達だと、一瞬遅れて彼らは理解した。目にも止まらぬ速さ、という言葉があるが、まさしくそれが当てはまる娘の動きであった。 彼女は息一つ乱していない。その形の良い唇は依然として緩く笑んでいた。しかし、その手に持つアレクの剣は、今斬った男達の血が滴っているのだ。 彼女の背後にいるアレクも、信じられぬ思いでその剣を見つめた。 彼の目にさえ、彼女の動きは素早すぎて、かろうじて剣の軌跡が見えたのみであった。 しかも、確実に相手の急所を狙っており、一人一撃で倒してしまっていた。剣の腕には多少の自負を持つアレクであったが、彼女はもしかしたら自分よりも強いのではないか、とさえ思ってしまった。 けれど、襲撃者達にはそれがわからなかったようだ。ただ闇雲に、仲間がやられたからと娘に向かって突進していった。 そして、一人、また一人と彼女の持つアレクの剣によって命を落としていった。 十数人いた仲間が五指に満たない数になった頃、ようやく彼らは実力の違いに気がついたようだ。どの表情も、怯えの色を表していた。 一人が後退りをする。 それにつられたように、皆が娘から離れようとした。もはや彼らの頭には逃げることしかなかった。ただ、この死神のような娘が逃がしてくれるだろうか……。 しかし、彼女の方は彼らに興味はなかったようだ。男達が逃げる素振りを見せると、無造作に彼らに背を向けた。 皆殺しが目的ではないらしい、そう察して、男達は一斉に姿を消した。 |
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I promised to protect him from everything. =「私は彼を全てから守ると約束した」
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