――――快楽は心を石に変えるかもしれない

      富も心を冷酷にするかもしれない

      しかし、哀しみは心を壊すことはできない

      かえって、傷つくことで心は生きる――――――





         『ワイルド蔵言集』O・ワイルド著(西村孝次訳)







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Undeniable Despair

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琥珀の章-act.6












 その男はマントについたフードを目深に被り、腕の中に幼子を抱いて、夕闇の中見渡す限りの草原の中を歩いていた。その時その場所によって一夜の宿を求めている男は、民家の一つも見えない草の世界の只中にあって、その日の夜の野宿を覚悟する。出来れば雨風をしのげる屋内が好ましいのだが、今の季節ならば外気も心地よいぐらいであるし、雲ひとつないこの夕空ならば雨に打たれる心配も無いだろうと、あっさりと野宿を受け入れた。野宿そのものは慣れているので抵抗がない。
 それに、一面の草原ならば獣や盗賊、そして追っ手が近づいて来てもすぐに気づくことが出来るという長所がある。ただし、こちらも見つかりやすく、そして見つかった場合には隠れられる場所も逃げ道もないという欠点があるのだが。

 そんなことをつらつらと思いながら、男は腕の中の幼子を見た。5歳ぐらいの少年は、黒髪を風に揺らしながら気持ちよさそうに寝息を立てている。無理もあるまい、物心つく以前よりずっと男と二人で逃亡生活を続けてきたのだ。それはこんな幼児にとっては肉体的にも精神的にも辛いことだろう。それでも、年相応の子供らしくなく弱音を一切見せない少年が愛しさと相まって、男にとっては哀れに感じられた。

(……わかっていたはずじゃないのか?この子に辛い思いをさせることは)

 安らかな寝顔を見下ろしながら、男は唇を噛み締めた。

(わかっていながら……何故、俺はこの子を連れ出したんだ?)

 自問自答する。それは、この幼子を腕に抱いて世界中を逃げ始めた時から彼自身の中で幾度と無く繰り返された問いであった。そして、その問いの答えも。何度となく繰り返されているやり取りなのだ。

――――――決まっている。この子にとっては、あそこに残ること自体が地獄のようなものだからだ)

 己が地獄に落ちるのは、自業自得なのだからと甘んじて受け入れる。けれども、幼子に咎はない。全ては自分が犯したの過ちなのだ。せめてこの子には平穏な生活を与えてやりたいと思ったからだ。……最も、結局平穏からは程遠い逃亡生活になってしまっているけれども。

「……すまない……お前を、幸せにしてやりたいのに……」

 苦渋の声を洩らしながら、男は幼子をギュッと抱きしめた。

 その時、聴覚が拾い上げたかすかな音に、男は眦を険しくして振り返った。
 音が聞こえる。これは……足音だろうか?妖魔ならばこんな足音など立てるまい。しかし、人間とも異なるものだ。獣、でもない……家畜、だろうか?

 見ると、遠くから草を掻き分けながら進んでくる群れがある。羊のようだ。

「遊牧民……か」

 ありがたい、と男は思った。遊牧民は気さくな人柄の持ち主ばかりだ、彼らに頼めば一夜の宿を借りることも出来るだろう。そう思い、男は幼子を腕に抱いたまま立ち止まって、遊牧民達が近づいてくるのを待った。

 羊の群れと、それを率いる人馬、そしてその後に連なるいくつかの馬車の姿が、徐々に明確になっていく。馬に乗り羊を追う者、荷馬車の御者台で手綱を取る者、ロバの背にたくさんの荷を乗せて手綱を引っ張る者が、ゆっくりとゆっくりと歩んでいた。

 夕日が完全に落ち、世界が薄闇に支配される頃、ようやく一団の先頭が先方にたたずむ男の影に気づいたようだ。仲間の一人と思しき男が馬を駆り、皆より一足早く駆け寄ってきた。

「どうかしたのか?俺達に何か用があるのか?」

 声をかけてきたのは、もちろん人影が遊牧民の一団に危害を加えるような様相をしていないことを確認したからだろう。男がその腕に幼子を抱いているのも、彼らの警戒を薄くしたのは間違いない。

「もうすぐ日が暮れ野宿をしようと思っていましたが、よろしければ一夜の宿をお借りしたいと……」

 男は、そこでハッとなって言葉を切った。マントの奥からじっと遊牧民の男を見つめる。

 そして。

「……クラヴィヤード……か?」

 と、信じがたいという声で呟いた。
 それが遊牧民の男の名前だったのだろう。もちろん、突然名を呼ばれた彼の方も困惑を隠せない。馬上の男は手綱を引きながら首を傾げた。

「どうして俺の名を?お前は誰だ?」

 子供を抱いていた男は、無言でマントのフードを後に払った。
 漆黒の闇のような黒い髪。深い海のような群青色の瞳が顕わになった。顔立ちは鼻筋が通っていて端整である。まだ若い。おそらく20代後半なのではないか。

 表れた容貌を見て、馬上の男は目を瞠った。見覚えのない顔ではなかったからだ。

「……アールジュニ……か?」
「久しぶりだな、クラヴィヤード」

 二人の声が、懐かしげに揺れた。








 中天に浮かぶ月の光は、あいにくと雲が多い為か朧に霞んでいた。
 しかし、その柔らかな明かりは、遊牧民が夜を明かす為にと張った色とりどりのテントが並ぶ草原に優しく降り注いでいた。

 その内の一つにアールジュニは案内された。クラヴィヤードの持ちテントだ。
 アールジュニの腕の中で眠っていた子供は、テント内に漂う美味しそうな手料理の匂いに胃を刺激されたのか、起こされる前に自然に覚醒をしてクラヴィヤードの妻から温かな食べ物をもらっていた。舌を火傷しないようにと一生懸命息を吹きかけ、美味しそうに頬張っている。空腹が満たされるその感覚に、自然と幸せそうな笑みを浮かべていた。

 微笑みながら子供を横目で見るアールジュニは、すすめられてテントの真ん中のクッションに腰を下ろすと、クラヴィヤードから差し出された杯を受け取った。

「まあ、一杯やろう」
「ありがたく頂こう」

 酒を酌み交わす二人。
 杯を口に運びながら、無言の時が流れる。その沈黙は決して気まずいものではなかったが、さりとて心地よいと呼べるようなものでもなかった。お互い、何かを話し出そうとするのだが、どうやって切り出して良いかわからずに口ごもっては唇を閉ざしてしまう、そんな繰り返しだった。

 しかし、意を決したのか、アールジュニの方から沈黙を破った。

「……お前、どうしてここにいる?“塔”はどうした?」
「“塔”からは退職した。長を継いだ兄貴が事故で亡くなっちまったもんだから、俺が後を継いだってわけさ」
「剣術師のお前が遊牧民の長ね」

 クックッと含み笑いをするアールジュニ。剣術師として“塔”に籍を置いていたクラヴィヤードの姿を思い出しているのだろう。

 そんなアールジュニに、今度はクラヴィヤードが、探るような視線を向けて切り出してきた。

「それより……お前こそ、何故こんな所にいる?」
「……」
「あの子は……例の子、だな」

 クラヴィヤードは、再会した時にアールジュニが腕に抱えていた子供に向けられている。それには答えずに、アールジュニは子供を呼んだ。

「アシュヴィン、こちらに来なさい」
「はい」

 素直な返事をして、子供はアールジュニの隣に座った。

「俺の子だ。名前はアシュヴィッターマンという」

 紹介されて、子供はぺこりとお辞儀をする。顔を上げたアシュヴィンを、クラヴィヤードは改めてマジマジと観察した。

 顔立ちは父親にで、アールジュニによく似ていた。幼いながらもその端整さは思わず目を瞠るものがある。黒髪も父親譲りなのだろう、艶やかな漆黒さに惚れ惚れしてしまう。

 しかし、クラヴィヤードの表情は優れなかった。気難しげに眉を寄せている。子供の瞳を真正面から覗き込んだからだ。深い群青色のアールジュニとは全く違う――――――琥珀色であった。

 アシュヴィンの黒髪を撫でながら、穏やかな声をアールジュニは紡いだ。

「今はこの子を連れて当てのない旅でそこら辺をさまよっているよ。もう、5年になる」
「……どうするつもりだ、この子を……?」
「……さあ……まだ、決めていない……」

 アールジュニの唇が自嘲に歪んだ。








――――――どこだろうと、母親の側にいるよりはこの子にとってはマシだ」








 片割れとは異なり、完全に人間として生まれたアシュヴィン。その身に魔を欠片も持たない彼は、妖魔の世界では到底生きてはいけないだろう。命が、ということもあるが、何よりも精神が持ちはすまい。人間と妖魔の精神構造は全く異なる。あれほどに魔の気が強い世界で、何事もなく健やかに育つことなど決してありえないと断言できるからこそ、アールジュニはアシュヴィンをつれて妖魔の世界から逃げ出した。

 ……もう一人の我が子の行く末も、気にならないといったら嘘になるが、彼はアシュヴィンとは異なり生粋の妖魔として生まれた。だからこそ、彼は妖魔の世界で生きる方が彼の為になると思い、アールジュニは双子の片割れを母親の元に置いてきたのだ。
 ……父親に似ていないという、ただそれだけで、その子が母親からも顧みられていないということを、人間界をさまよっているアールジュニが知る由もないが。

 ただ、その選択が正しいことであるとは知りつつも、それでも己の決意を迷う自分が常に存在していることをアールジュニは自嘲した。母子が、父子が、離れて生きることが果たして本当に互いの為になるのかと、自問し続ける。もちろん、どれほど苦い思いを噛み締めようとも、その答えは一つしかないとわかりきっているのだが。

 クラヴィヤードの瞳が気遣わしげに揺れている。彼の視線を避けるように、アールジュニは杯を一気に飲み干した。強い酒は咽喉を熱く焼くが、今の自分の気分には丁度良いと皮肉げな思いになる。

 そんなアールジュニの、己を責めるような自棄になった飲み方に、クラヴィヤードは眼差しをそらしながらも努めて軽い口調で呟いた。

「再婚しろよ。アールジュニ」

 突然のクラヴィヤードの提案に、アールジュニは目をぱちくりとさせた。思いもがけぬ言葉に困惑を隠せない。

「お前はともかく、その子には母親がまだ必要だろう。その子の素性さえ隠せばお前の嫁になりたい奴はたくさんいるだろうーが」
「再婚するつもりはないよ」
「何故だ?お前はまだ若いんだ。やり直しは幾らでも出来るんだぞ」

 不器用さの伝わる思いやりに、苦笑しながらアールジュニは答えた。








――――――俺の心は、あの女に囚われている」








 クラヴィヤードは目を瞠った。
 人間が妖魔に心を奪われる、など、とても常軌を逸しているとしか思えない言葉だからだ。それが原因で妖術師であった彼が“塔”を抜けたのはもちろん承知していたのだが、だからといって本人の口から言葉になされるのは人間の立場としてある種の衝撃を受けざるをえなかった。これが、“塔”で戦友として親しく過ごした彼が相手でなければ、その襟首を引っつかみ正気に戻れと頬を引っぱたいただろう。

 アールジュニは、にわかには信じたくない、というクラヴィヤードの視線を感じながら、それでも激することなく静かに続けた。

「妖魔七王の一人だとわかっている。人間と同じ感情を期待するのが無理だということも承知している。それでも、俺は……」
「アールジュニ……」
「……この子がいなければ、一生を闇の城の虜の身で終えただろう……このこの正体を考えればこそ、逃げ出す決心がついたんだ」
「……馬鹿だよ、お前は……」
「俺も、そう思う」

 風でテントがガタガタと揺れる。穏やかな夜だと思っていたが、風向きが変わってしまったらしい。草原がザザッと波立ち始めた。

 風の音に、何かを感じたのか、アールジュニが居住まいを正して杯を置いた。

「……クラヴィヤード、頼みがある」
「何だ?」
「もし、俺が死んだら……この子を“塔”の老師デーヴァバジャル様の元へ送り届けて欲しい」
「アールジュニ!?」

 突然の縁起でもない発言を投げつけてきたアールジュニを問い詰めようとしたクラヴィヤードは、しかし彼の厳しい表情に気づき、声を飲み込んだ。神経を外に集中させているのだろう、彼のまとう空気が酷く緊張していた。

 アールジュニが無言で立ち上がる。
 一体何事かと、クラヴィヤードは狼狽してしまう。

「お、おい!?」
「追手だ」
「追手!?」
「あの女なら、俺達は連れ戻される。だが、もし違ったら……」
「違ったら?」
「俺達は殺される」
「妖魔か!?」

 クラヴィヤードは蒼ざめた。つい最近まで“塔”で剣術師として働いていた彼である、妖魔の恐ろしさは身にしみて承知しているのだ。

「な、何でお前達を殺そうとしてるんだ?」

 アールジュニは妖魔と情を交わしただけで、彼らと敵対しているわけではない。すでに“塔”らも追放されている。何故彼らが狙われねばならないのだろうか。

 アールジュニの自嘲はさらに深くなる。

「自分達の主人をたかが人間に取られたことが許せないんだ」
「ゆ、許せないって……選んだのはその主人だろうが。恨むのは筋違いだろ!?」
「そんな理屈、妖魔には通じないさ」
「そ、そんなことをその主人とやらが許すはずないんじゃないのか?そいつが追手なら連れ戻されるってことはまだお前に執着しているってことだろう?」
「妖魔の支配系統も人間には理解できない代物さ。主人の命令は絶対だが、妖魔としての誇り高さゆえの行動は別らしい」
「……今までにも襲われたことがあるのか?」
「闇の城を逃げ出してから5年間、ずっとな」

 クラヴィヤードは絶句してしまう。5年という逃避行は、決して楽なものではなかったはずだ。彼らを連れ戻す追手と殺そうと狙う追手。それらをかいくぐって生きていくことがどれほど困難なことか、想像不可能なだけに理解することは出来ないけれども。

 彼に執着する女妖魔に助けを求めれば、少なくともその配下に狙われることはなくなるはずだ。殺されるよりはマシだろう。何故そうしないのかという疑問がクラヴィヤードの脳裏に浮かぶが、彼はそれを声にしてアールジュニに問いかけることはしなかった。彼がどう答えるか、長い付き合いのクラヴィヤードにはわかったからだ。

 ――――――自ら進んで囚われることは、人間としての矜持を捨て去ることに他ならない。

――――――俺の心は、あの女に囚われている』

 そう告白したアールジュニ。アシュヴィンがいなければ、多分彼はとっくに人間としての矜持を捨てていたのだろう。アシュヴィンの存在が、かろうじて彼を人間としての境界に引きとどめているのだ。

 ……ある意味、自らの心に反するその行為は、彼を苦しめているのではないか、とも思うけれども。

 言葉をなくしたクラヴィヤードの傍らで、立ち上がったアールジュニはマントを羽織ると、彼は息子を呼んだ。
 琥珀の瞳が見上げてくる。アールジュニは愛しい我が子の顔を覗き込んだ。

「いいね、いつも言っている通り、デーヴァバジャル様の指示に従うんだ」
「はい、父上」

 まだ、たった5歳ながらも、アシュヴィンは自分達のおかれている状況を全て理解していた。アールジュニに向かって母親の存在を求めたこともない。聡明ゆえに、アシュヴィンは父との別れが何を意味するのか、知っていた。

 父の言葉に気丈に頷きながらも、アシュヴィンの見上げる瞳は揺れている。
 もしかしたら、もう二度と会えなくなるかもしれない。父という存在を、永遠に失ってしまうのかも……。

 唇を噛み締め、嗚咽を洩らさないようにとするアシュヴィンを、アールジュニは強く抱きしめた。幾ら聡明とはいえ、この子はまだ幼い子供なのだ。親の愛情を求めて止まない幼さで両親を共に失ってしまう我が子が哀れでならなかった。

「……クラヴィヤード……この子を、頼む!」

 アシュヴィンを抱きしめながら、アールジュニはかつての戦友を見つめた。
 群青色の瞳には切実な願いが込められている。その瞳の懇願を、断ることなどクラヴィヤードに出来るわけがなかった。

「……承知した」
「感謝する、クラヴィヤード。巻き込まれないように他の遊牧民達を連れて移動してくれ」
「わかった。だが、感謝なんかいらないから、必ず生きて帰って来いよ!お前が追いつくのを待っているからな!!」

 死ぬな、という想いが切に込められているのを感じ取り、アールジュニは微笑んだ。

「じゃあ、行って来るよ」

 まるで、どこかに散歩にでも行くような口調で、アールジュニはテントを出て行った。
 ……本当は、生きて戻れるかわからない死地に赴くのに……。








 ――――――そして、彼は戻ってこなかった。

 アールジュニが妖魔を迎え撃った場所から大分離れた小高い丘の上で、アシュヴィンはクラヴィヤードとずっと父が戻ってくるのを待ち続けたが、夜が空け太陽が世界を照らし始めた頃になってもアールジュニの姿は全く現れなかった。

 アシュヴィンにはわかっていた。
 この小高い丘についてしばらくして、急に胸が痛くなった。締め付けられるような苦しさに、アシュヴィンは歯を食いしばって耐えた。しかし、それが自分の肉体に生じた痛みではないことも、彼は瞬時に悟ったのだ。

 これは……父の痛みだ。

 ――――――……アールジュニは死んだのだ。

 涙は出なかった。心が引きちぎられそうなくらいに哀しいのに、何故かアシュヴィンの瞳からは涙は出なかった。

 父の姿を見ることは決してないとわかっていたが、アシュヴィンはずっとそこで待ち続けた。
 待たずにはいられなかったのだ……。













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